金田一耕助ファイル16    悪魔の百唇譜 [#地から2字上げ]横溝正史      一  ことしは|空《から》|梅《つ》|雨《ゆ》の|懸《け》|念《ねん》濃厚という気象庁の予報だったが、さりとて一日として満足なお天気の日はなかった。  来る日も来る日もぐずついた天気がつづいた。  雨はめったに降らなかったかわりに霧の日が多かった。しかも気温は盛夏なみだ。いわゆる不快指数八十いくらというやつで、こういう天候がいちばん人間の体をむしばむと同時に、精神状態も狂わせるのだろう。  時。昭和三十五年六月二十二日未明四時。  場所。東京都世田谷区成城町。  そのまえの晩も霧がふかくて、樹木の多いこの成城町ではおりおり桜並木の青葉の|梢《こずえ》から、霧が|凝《こ》って水滴となり、下いくひとを雨かとばかり驚かせた。しかも八時になっても気温は三十度。まるで鼻も口も古綿でおおわれたような息苦しさだった。都心をとおくはなれたこの|高《こう》|燥《そう》の地成城町でこれなのだから、人家の密集している都心はどのような寝苦しさだろうと思われるような晩だった。  だが、さすがに深夜も十二時を過ぎると気温もいくらかさがりはじめて、不快指数もだいぶんさがったようだ。しかし、ガスは依然として濃いのである。  その朝、成城署所属の田村巡査は昨夜からけさへかけて二回目のパトロールについていた。懐中電灯をつけたり消したりしながら、コツコツとじぶんの受持区域を巡回していた。町はまだ夜明けまえの|暗《くら》|闇《やみ》につつまれている。霧もそうとうふかかった。  このへんは東京でも有名な高級住宅地で、田村巡査がいま巡回している区域にもりっぱなお屋敷がならんでいる。街路も|碁《ご》|盤《ばん》の目のように整備され、舗装もよくいきとどいていた。  しかし、こういうりっぱなお屋敷に住む人物のなかにも、そうとういかがわしい人物もいるということを田村巡査もしっている。かつてそれらのりっぱなお屋敷を建てたひとびとの大半は戦後没落していって、いまそこに住んでいる人物の多くは、戦後どこからか移住してきたご連中である。  それらのなかにはどこの馬の骨だか牛の骨だかわからぬ人物もいなくはない。げんにこのあいだもそうとうりっぱな邸宅をかまえていた外人の宅から、多量の麻薬が発見されて、町のひとたちを驚かせたことがある。 「おや」  田村巡査はふと立ちどまった。目のまえに少しかしいでとまっている自動車に懐中電灯をさしむけた。自動車はオースチン。ヘッドライトもルームランプも消えていた。  田村巡査は昨夜のパトロール中九時半ごろここを通りかかった。そのときもおなじこの場所におなじ自動車がおなじ格好でとまっていた。ただしそのときはヘッドライトもルームランプもついていた。  ここは道路の|幅《ふく》|員《いん》が十メートルあるから路面駐車が許される。ちかごろは自動車がやたらにふえたが、それらの持ち主は必ずしもガレージを持っているとは限らない。ガレージを持たぬひとたちは、家のまわりの路面のすみにパークしておく。げんにいま田村巡査のあるいている道の前後にも、点々として自動車がとまっている。  しかし、この自動車の位置はすこしおかしかった。ほんのちょっぴりだが道路の中央へより過ぎている。幅員が十メートルもあるので通行のじゃまになるほどのことはなかったが、路面駐車としてはいささか非常識である。  持ち主がいたら注意しようと田村巡査がちかづいていくと、とつぜん自動車の背後から男がひとり飛び出してきた。  懐中電灯の光をむけると大きな|鼈《べっ》|甲《こう》ぶちの眼鏡をかけた男だった。古ぼけた中折れ帽をまぶかにかぶり、これまた古ぼけたレーンコートをぞろりと着ていた。だしぬけに懐中電灯を差し向けられてびっくりしているようすだった。年齢は四十五、六だろう。しょぼしょぼと無精ひげをはやしている。 「君、君、これ、君の自動車かね」 「とんでもない。わたしはただ通りがかりのもんですよ」 「そんなところでなにをしていたんだ」 「いえ、いま|靴《くつ》のひもがほどけたんでテールライトの光で結びなおしていたんです」  いかさま風体からみても自動車を持てる人柄ではない。|尾《お》|羽《は》打ち枯らしたという格好だ。 「君、この自動車の持ち主しらんかね」 「そんなことはしりませんや。ただここを通りかかっただけなんですから」 「いや、ぼくのいったのはそうじゃなく、この自動車の持ち主がどこにいるかってことだ」 「いえ、それもしりませんねえ。わたしゃほんの通りがかりなんですから」  こころみに運転台のドアに手をかけるとなんなく開いた。エンジンの|鍵《かぎ》|孔《あな》には鍵がさしたままになっている。 「こいつは不用心だな。どこへいったんだろ」 「旦那、この自動車がどうかしたんですか」 「なに、駐車の位置がすこしおかしいんでね。持ち主がいたら注意しようと思ってたところだ」 「じゃ、わたしはよろしいですね」 「やあ、どうも呼びとめてすまなかった」  田村巡査はその男が二十メートルほどむこうにある道を、北へまがっていくのを見送ってから五分ほどそこに待っていた。しかし、持ち主はかえってこなかった。  田村巡査はいつまでもこの自動車にかかずらっているわけにはいかなかった。駐車違反というほどではない。違反になるかならぬかのすれすれである。田村巡査はまだパトロールをして歩かねばならなかった。  エンジンの鍵孔にさしこんである鍵が気になった。しかし、鍵をさしこんだままいったところをみると、この自動車どこか故障をしているのかもしれない。そうだ、それで自動車がすこしかしいでいるのだ。持ち主はきっと修理屋を呼びにいっているのであろう。  田村巡査は持ち主が修理屋を呼んでくるまで待つわけにはいかなかったので、そのままそこを立ち去ったのだが……それが昨夜の九時三十分ごろのことである。  その自動車がゆうべとおなじ格好でそこにとまっているのである。しかし、ヘッドライトもルームランプも消えているところをみると、あれから持ち主がかえってきたのであろう。修理屋はこなかったのか。  自動車のドアに手をかけるとぴったり鍵がかかっており、なかをのぞくとエンジンの鍵孔から鍵が消えていた。後部へまわるとテールランプも消えている。  ゆうべの男はここで靴のひもをゆわえなおしていたのだが……と、なにげなく懐中電灯の光をそこへむけた田村巡査は、思わず、 「おや」  と、|闇《やみ》のなかで目を光らせた。  後部トランクの下の地面にマッチのもえかすが散らばっている。かぞえてみると六本あった。その一本を取りあげてみると霧をおびて湿っているが、まだ新しいところをみると、マッチがすられてからまだそれほど時間がたっていないことがわかる。ほかの五本もおなじだった。  だれかがマッチをすってここでなにかを探していた。だが、なにを。そして、それはゆうべのあの鼈甲ぶちの眼鏡の男であろうか。  田村巡査はそう思えなかった。あの男はたしかにじぶんがそばへちかづくまで気がつかなかったようである。しかし、たとえ自動車の陰になっていたとはいえ、ここでマッチをすっていたらじぶんも気づいたはずである。  田村巡査は懐中電灯を消してあたりを見まわした。なにかを探すとすればマッチでもすらねばならぬ暗さである。  左側には|大《おお》|谷《や》|石《いし》をつみかさねた低い石垣がつづいている。石垣のうえには土が盛ってあってツゲの垣根がよくかりこまれている。垣根のなかのずっと奥に|誘《ゆう》|蛾《が》|灯《とう》が紫色にかがやいている。しかし、ぎっちり植えこまれた樹木にさえぎられて、誘蛾灯の光は垣根の外までとどいていない。  約二十メートルさきに路がT字型をなしているところがあり、ゆうべサングラスの男が曲がっていった道である。そこの電柱に街灯がついていて、霧のなかにぼやけていた。しかし、二十メートルもさきのことだし、自動車はそっちへ頭をむけているので後部のほうはまっ暗だ。  ここでなにかを探すとすればマッチをすらねばならないが、それがあの男だったとするとマッチの光が田村巡査に見えたはずである。かれはこの道をかなりむこうからやってきたのだから。  では、あとからやってきたこの自動車の持ち主が、ここでなにかを探していたのか。 「いや!」  と、田村巡査はとつぜん唇を強くかみしめた。  あの男が……あのサングラスの男がここで靴のひもを結んでいたというのは偶然だろうか。マッチをすったのがあの男でないとしても、あの男もこのマッチのすりかすに気がついて、ここにしゃがんでいたのではないか。  そういえばゆうべ九時三十分ごろここを通ったとき、田村巡査はとくにこのへんの地面に注意を払うようなことはなかった。かれはただテールランプのついているのを|瞥《べっ》|見《けん》していっただけだった。  田村巡査はもういちど懐中電灯の光で路上をさぐりながら自動車のまわりを一周した。  とつぜん田村巡査は立ちどまった。  よく舗装されたアスファルトの路面に、赤黒い|斑《はん》|点《てん》がいちめんに散っている。田村巡査はおそるおそるその斑点に指をもっていった。その指先をかいでみた。 「なーんだ。バカにしてやがる」  いまいましそうに舌打ちして頭上を仰いだ。  この町名物の桜並木の桜の木が、青黒い葉をいっぱい繁らせて道のうえに枝をひろげている。路上いちめんに点々としていろどっている赤い斑点は、そこから落ちたサクランボなのだ。人の足だの自動車だのに踏みつぶされて、血の斑点のように散っているのだ。  田村巡査はがっかりしたが、つぎのしゅんかん飛びあがった。文字どおり飛びあがったのだ。だしぬけにツゲの垣根のうちがわから猛烈に犬がほえはじめたからである。  ツゲの垣根のうちがわは有名な法律学者K先生の|邸《てい》|宅《たく》だ。そこにネロというシェパードがいることを田村巡査はしっていた。よく訓練された犬ははじめからむやみにほえつかぬものらしい。この犬もさっきから垣根のうちがわから田村巡査の行動を監視していたにちがいない。そして、ここにいたってにわかにほえはじめたのだろう。 「おお、よしよし、怪しいもんじゃないよ。おまわりさんだよ。ネロだったね」  田村巡査はネロをあやしながらなにげなく頭上に手をやった。さっき飛びあがったひょうしになにやら固いものが帽子にさわったからである。田村巡査は身長五尺六寸はある。 「おや」  と、田村巡査はくらがりのなかで帽子にさわったものを手探りにさぐった。なにやら固い金属製のものがそこにぶらさがっている。  田村巡査は一歩さがってそのものに懐中電灯の光をむけた。桜の枝から妙なものがぶらさがっている。  鍵だった。鍵のさきにピンク色のリボンがついていて、リボンのさきに銀の鈴がついている。  リボンの輪になったところが桜の枝にひっかかっていた。  自動車のトランクの鍵ではないか。  それにしてもなぜこんなところにトランクの鍵がひっかかっているのか、田村巡査にはそこまで考えるよゆうはなかった。かれはやっと桜の枝からその鍵を手に入れた。  田村巡査は懐中電灯の光でそれが後部トランクの鍵らしいとたしかめた。あの六本のマッチのすりかすはこの鍵を探していたのではないか。とにかく|験《ため》してみることだ。  はたして鍵はトランクの鍵穴にぴったりあった。トランクのふたに手をかけたとき、田村巡査はちょっとした興奮と若干のためらいを感じていた。  ふたはひらいた。とたんにプーンと鼻をついたのは異様なにおいだ。血のにおいである。  田村巡査はおもわず一歩たじろいだが、すぐ思いなおして懐中電灯の光をトランクのなかに差しむけた。田村巡査は呼吸をのみ、つめたい|戦《せん》|慄《りつ》が背筋をつらぬいて走るのをおさえることができなかった。  トランクのなかには女の死体がつめこまれていた。血のにおいで窒息せんばかりである。田村巡査はいちど顔をそむけたが、すぐ勇気をふるってトランクのなかを見直した。  女は|錆《さび》|朱《しゅ》|色《いろ》のレーンコートにくるまっている。レーンコートの地はビニールだった。くしゃくしゃに形のくずれた髪が女の顔半分をおおい、からす蛇のように首にまきついている。真珠のイヤリングが懐中電灯の光のなかでにぶいかがやきを放っていた。  田村巡査は武者ぶるいをし、したたり落ちる汗をぬぐった。それからまたトランクのなかをのぞきこんだ。  レーンコートはただ腕をとおしているだけで、ボタンはみんなはずれていた。下に着ている衣装まではわからなかったが、胸のあたりに血溜まりができているらしい。  撃たれたのか、刺されたのか。まだそこまではわからなかった。  妙なものが目についた。トランプのカードのようだ。いちめんにあふれた血のなかに|浸《ひた》っているのでよくわからないが、なにかのクイーンのようである。  田村巡査は署へ報告をするまえに、女の顔を見ておきたいと思った。真珠のイヤリングに見覚えがあるような気がしたのだ。女はむこうむきに詰めこまれているので、田村巡査はうんと身を乗りださなければならなかった。  生前とはそうとう印象がちがっているが、やはりそれは田村巡査の見知りごしの女であった。すぐこの近所に住む女で、そういえばこの自動車も見覚えがある。この女の亭主か旦那のものらしい。  田村巡査が胸を張って大きく深呼吸をしたとき東の空が白みかけてきた。田村巡査はそのときはじめてネロがほえつづけているのに気がついた。      二  金田一耕助はその朝銀座裏の画廊、サロン・ヴィーナスをのぞくつもりで、じぶんの宿舎緑ケ丘町の緑ケ丘荘を出た。郷里の先輩の令息がいまそのサロンで個展をひらいている。義理でもちょっと顔を出す必要があった。  金田一耕助はいささか疲れていた。あるやっかいな事件と取りくんで数日まえにやっとかたづけたばかりである。心身ともに|消耗《しょうもう》をおぼえていた。そこへこの季節の不快指数だ。いささかノイローゼ気味になっていた。  画廊へ顔を出して義理を果たすと、信州か東北方面へ旅行するつもりであった。行先はまだ決めてなかった。上野へいって汽車のつごうで決めるつもりであった。  そのまえにもう一軒寄るところがあった。こんどの事件で|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部にそうとう世話になっている。東京をしばらく留守にするとすれば、一言あいさつをしておかねばならない。  六月二十二日の午前十時ごろ、警視庁のまえで自動車を乗りすてた金田一耕助はあいかわらずの風体だ。|草《くさ》|木《き》|染《ぞ》めのひとえに|夏袴《なつばかま》、|草《ぞう》|履《り》をつっかけた|白《しろ》|足《た》|袋《び》は|鼠色《ねずみいろ》に変色している。小型のスーツケースをぶらさげて、捜査一課第五調べ室へ入っていくと、部屋のなかは殺気立っていた。等々力警部は報道関係者に取りかこまれて質問攻めにあっていた。 「やあ、金田一先生」  警部は新聞記者の頭越しに金田一耕助の姿を見ると、ニタリと笑ってデスクを立った。 「あなた旅行に出られるんですって?」 「えっ、け、警部さん、あなたどうしてそれを……?」 「いやあ、さっきお宅へ電話して管理人の山崎さんからきいたんですよ」 「なにか急用でも」 「この連中を見たらわかるでしょう。またひとつよろしくお願いいたしますよ」 「そ、そ、そんな、……ぼ、ぼくはこれから旅行しようと……」 「旅行たってまだ行先も決まってないそうじゃありませんか」 「だからこれから上野へいって、汽車の時間表とにらみあわせて……」 「金田一先生、けっこうなご身分でいらっしゃいますね」  そばから顔見知りの記者がまぜかえしたので、第五調べ室はドッとわいた。 「新井君、金田一先生のスーツケースをおあずかりしとけ。先生の貴重品が入ってるんだろうから丁重にな。あっはっは」 「そ、そんな殺生な」 「先生、どうぞ、どうぞ」  力ずくではかなわない。とうとう虎の子のスーツケースを新井刑事にまきあげられて、金田一耕助は絶望的な目つきになった。 「い、いったい、なにが起こったんです」 「それはみちみち説明しましょう。諸君」  と、等々力警部はあたりを見まわして、 「いまもいったとおりいまこの段階では、われわれにもなにもわかっていない。いま発表したくらいが関の山なんだ。われわれはこれからもういちど、金田一先生とともに現場へ出向く。諸君もなんならついてきたまえ。さあ、金田一先生」  金田一耕助はさいごの抵抗をこころみようとしたがすぐ|諦《あきら》めた。警部の思いやりがわかっている。  金田一耕助は事件をかたづけたあと、いつもそうとうひどいメランコリーに取りつかれる。救いようのない孤独感につつまれてしまうのだ。それまで活発にはたらいていた脳細胞が休止すると同時に、その反動として|倦《けん》|怠《たい》|感《かん》におそわれるのだろう。  倦怠感だけならまだよかった。どうかすると自己|嫌《けん》|悪《お》をおぼえるらしい。人の罪をあばくことをもって身のなりわいとしているじぶんというものに対して批判的になり、そこから自己嫌悪が生じるらしい。自己嫌悪が高じて人ぎらいとなり、救いのない孤独感から、はては逃避的となっていく。  等々力警部はこういうかれを見ることを好まなかった。いや、好まないというよりはじぶんまでが息苦しくなるのだ。  金田一耕助は自己嫌悪など感じる必要はないのだ。かれはつねに正しいことをやっているのだ。しかし、いかなる慰めも賞賛もそういう場合には通じなかった。いや、かえってこの男を孤独の境地においやるばかりだ。  そのうちに警部は一計を案じた。この男をそういう孤独感から救うには事件に駆りたてておくに限るのだ。至難な|謎《なぞ》にぶつかったときかれの表情はいきいきしてくる。損得の勘定はなかった。じぶんの能力の限界を見きわめようとする求道者のファイトだけがそこにあった。  警視庁より成城町まで自動車で約一時間。その|間《かん》警部はあまり多くを語らなかった。金田一耕助に直接その目で見、その耳できいて判断を下してもらいたいのだ。よけいな先入観は禁物である。  だから自動車のなかで金田一耕助がしりえたのは、つぎの諸点だけである。 [#ここから1字下げ] ◎[#この部分正しくは1字下げ折り返して2字下げ]けさ未明四時ごろ成城町の路上で自動車のトランク詰めにされた女の死体が発見されたこと。ならびに発見の|顛《てん》|末《まつ》。 ◎死体はいま成城町のM病院に収容してあること。 ◎自動車も発見された場所にあること。 ◎被害者は成城町の住人で李泰順という中国人の内妻であるらしいこと。 ◎自動車の発見されたのは李の住居から約五百メートル離れた路上であること。 ◎犯行の現場は李家における被害者の居間であるらしいこと。 [#ここで字下げ終わり]  以上のていどであったが、金田一耕助が興味をおぼえたのは、犯人が死体を他へ移そうとしていたことである。それはなぜか。  自動車が成城町にちかづくと、 「先生、まず自動車をごらんになりますか」 「警部さんのよろしいように」  金田一耕助は万事あなたまかせだ。  渋谷方面からきた自動車が成城駅を右に見て、小田急の大踏み切りを突っきってのち、まっすぐに北上すること約二分、道を右へまがって五十メートルほどいったところの道の左側に、問題の自動車はとまっていた。  金田一耕助と等々力警部、新井刑事の三人が自動車からおりると、やじ馬のなかから出てきたのは成城署の三浦刑事だ。 「金田一先生、しばらく。このたびはまたひとつご協力をお願いいたします」  金田一耕助はまえにも成城署の管轄内で起こった事件にタッチしたことがあり、ここの連中とは顔なじみになっていた。 「三浦君、山川君は?」 「主任さんは病院でお待ちしてます。金田一先生がいらっしゃるときいてよろこんでましたよ」  金田一耕助はまず自動車に目をやった。日本におけるオースチンは一九六〇年型までしかないそうだが、この車は一九五七年型で、この事件からかぞえて三年まえの車である。取りあつかいが乱暴だったと見えてかなりいたんでいる。 「金田一先生、ご紹介しときましょう。ここにいるのがさっきお話しした田村巡査、この事件の発見者です。田村君、金田一先生だ」 「あっ。お目にかかれて光栄です」 「金田一先生がね。きみの口から直接ゆうべからけさにかけてのいきさつをききたいとおっしゃるのだ。ひとつ話してあげてくれたまえ」 「はっ、承知しました」  田村巡査は東北うまれだ。ズーズー弁である。しかし、そのわりには要領よくゆうべからけさへかけてのいきさつを語ってきかせた。 「すると、ゆうべあなたがこの自動車に気がついた正確な時刻は?」 「はあ、いま申しあげた鼈甲ぶちの眼鏡の男がむこうの三つ角を被害者の宅のほうへ曲がっていくのを見送ってから、わたし五分ほど自動車の持ち主がかえってくるのを待っていたんであります。そのとき腕時計を見たら九時二十五分でした」  金田一耕助に敬意を表してのことか、田村巡査はいくらか昔の軍隊口調である。 「すると、あなたがこの自動車をさいしょに見たのは九時二十分ごろのことですね」 「はあ」 「すると自動車のぬしはそれ以前にこの車を捨てたということになりますね」 「はあ、だけど車のぬしはあとでいちど引きかえしてきたんじゃないかと思うんであります」 「どうしてそう思うんですか」 「はあ、ゆうべあったエンジンの鍵が紛失してましたし、さきには開いていたドアがけさはしっかり締まって鍵がかかってました。それにゆうべはついてた明りがけさはみんな消えてたんであります」 「それにしても自動車のぬしはどうして鍵をおいてったのかな。ちかごろ自動車の盗難がはやっているのをご存じなかったのか、それとも死体ごと盗ませようという|魂《こん》|胆《たん》だったか」 「いや、金田一先生」  と、三浦刑事がさえぎって、 「この自動車エンジンが故障してるんですよ」 「えっ、じゃここでエンコしたんですか」 「そうです、そうです、だからこういうことになりますね。ここから五百メートルほどある殺人の現場から死体をほかへ移そうとした。ところがここまでくると車が故障で動かなくなってしまった。そこでしかたなく車を捨てて逃げたんだろうということになってるんです」 「なるほど。するとエンジンの鍵はあっても役に立たなかったということですか」 「まあ、そういうことです」 「ところでこれ被害者の宅の自動車だということでしたね」 「はあ、厳密にいえば被害者の|良人《お っ と》李泰順のものですね」 「ところで田村さん」 「はあ」 「あなたがここで会ったという鼈甲ぶちの眼鏡の男ですがね。それ、この事件になにか関係があるんでしょうか。それともただたんに通りがかりの男でしょうか」 「いまから思えばあの男たしかに臭かったんであります。被害者の宅のほうへ曲がってったんでありますが、けさからあちこちきいてみるのに、そんな人相に該当する男この近所にはおらんのであります。だからせめてあのとき住所姓名職業などきいときゃよかったと……」  田村巡査はきょうは非番なのである。しかしこの大事件の発見者となった興奮に、制服をぬごうともせず寝不足の目を血走らせている。 「しかし、あいてが臭い男ならほんとのことをいったかどうかわかりませんね。あなたその男の顔は……?」 「はあ、それがそうはっきりとは……しかし、しょぼしょぼと無精ひげを生やして、しおたれた、いかにも尾羽打ち枯らしたような風体の男で」 「じゃ、その男はそうたいして顔をかくそうとはしなかったんですね」 「はあ、それですからわたしもふかく追究しなかったんであります。あいつがこの事件に関係があるとすると、よっぽどくそ度胸のすわった男だと思うんであります」 「さて、さいごに……」  と、金田一耕助は赤い布のぶらさがった桜の枝に目をやりながら、 「この枝に問題のトランクの鍵がひっかかっていたんですね」 「はあ」 「それにしてもなぜまたこんなところに鍵がぶらさがってたんでしょう。犯人がわざわざぶらさげていったのかな」 「金田一先生、それについてはわたしに考えがあるんでありますが……」 「ああ、田村さん、どうぞ」 「ぼくもそのことについてけさから一生懸命考えたんであります。それで、こういうことじゃないかと思うんでありますが……」 「はあ、ご遠慮なくつづけてください」 「じつはこの家にはネロというシェパードがいるんでありますが、そいつ利口な犬ではじめっからばかなほえかたしないで、よくよく臭いとみてからほえつくんであります。わたしもゆうべそれにやられて、びっくりしてとびあがったくらいで、そのひょうしに鍵が帽子にさわったんであります」 「なるほど、それで……?」 「はあ、犯人はここで自動車がエンコして逃げだすまえに、いちどトランクのふたを開いてみたんじゃないかと思うんであります」 「それはどういう理由で?」 「はあ、そこまではまだわからんのでありますが……」  田村巡査は赤面した。 「ああ、そう、トランクのふたを開けてみて? それからどうしたんですか」 「それからまたトランクのふたをしめて鍵をかけた。そのときだしぬけにネロにほえつかれてとびあがったひょうしに、鍵が手からはなれて宙にまいあがり、そこにひっかかったのを犯人は気がつかず、マッチをすって地面のほうばかり探していたんじゃないかと……」  田村巡査の|仕方噺《しかたばなし》はみごとであった。犯人がなぜここでトランクのふたを開いたのか、その説明のつかないのが欠点だが、それを除けばかれの演技は|完《かん》|璧《ぺき》だった。赤い目印のついた桜の枝はちょうどその位置に|位《くらい》している。  あとで、わかったところによるとこれは田村巡査の名推理であった。事件が解決し犯人がつかまったとき、かれの推理が的中していたことが証明され大いに面目をほどこしたのだ。  金田一耕助はあらためてあたりを見まわした。  ツゲの垣根は有名な法律学者K先生のお屋敷である。そのお屋敷と道路ひとつ隔てたむかいがわは幼稚園である。そうとう広い敷地をしめているが夜は無人もおなじだろう。幼稚園のとなりは|孟《もう》|宗《そう》の竹やぶが二百坪ほど。 「あなたこの近所で犬のことをきいてみましたか。何時ごろほえたかってこと」 「そうそう、じつはけさここの書生さんにきいてみたんであります。ゆうべここでわたしが鼈甲ぶち眼鏡の男と話してるとき、ネロがちょっとほえたんであります。わたしが声をかけるとすぐやめましたが、それが九時二十二、三分ごろのことで、書生さんもよく覚えてるんであります。ところがそれより五分ほどまえにも、ネロが猛烈にほえたんだそうで、あの犬はそうむやみにほえる犬ではないんで、書生さんも庭へ出てみようかと思ってるうちに、ほえるのをやめたんだそうであります」  一気にしゃべって田村巡査は帽子をとると汗をぬぐった。きょうもまた水銀柱がぐんぐん上昇しそうである。 「なるほど、そうするとさいしょにネロがほえたのが犯人だとすると、犯人は九時十七、八分ごろにここから逃げだした。そのあとへ鼈甲ぶちの眼鏡の男がやってき、さらにそのあとへあなたがやってきたってことになりますね」 「そうだ、そうです、そういう順序です。だから鼈甲ぶちの眼鏡の男は犯人がここでマッチをすってたのを見てたにちがいない、畜生!」  さいごに金田一耕助はトランクのふたを開いてみた。  トランクの底にはおびただしい血溜まりがまだそのままになっており、異様なにおいが鼻をつく。なかにはスペヤーのタイヤに工具を入れたズックの袋、ほかに油のしみたぼろの|類《たぐい》がぐっしょりと血にぬれている。ふと気がつくとふたのうちがわに二、三本長い頭髪がこびりついており、金田一耕助はそれを見るとおもわず首筋をちぢめて身ぶるいをした。 〈それにしても……〉  と、金田一耕助は考える。 〈犯人がここでトランクのふたを開いたとしたら、それはなんのためだろう〉      三  成城町のM病院というのはそうとう大きな病院で、木造建ての構内はとてもだだっ広かった。病棟から病棟へとつづく廊下を歩いていくと、しずまりかえった空気のなかに病院特有のにおいが強く鼻をついた。  廊下から外を見ると青桐の葉が力なく垂れさがり、きょうもまた蒸し暑くなりそうだ。不快指数八十を越えることは必至だろう。  死体仮置き場はこの病院のいちばん奥まったところにあり、ほかの病棟からとおく隔離されていた。粗末な木造の、バラックに毛のはえたていどの建物で、金田一耕助と等々力警部が入っていくと、 「やあ、金田一先生、いらっしゃい」  ニコニコと温顔でむかえたのは成城署の捜査主任山川警部補と顔見知りの江馬刑事。 「ご紹介しましょう。こちらこの病院の有吉先生、ご検視をお願いしております」  純白の手術着を着た有吉医師は|小《こ》|鬢《びん》に白いものをちらつかせた、いかにもベテランという感じの医者だ。眼鏡のおくから鋭く金田一耕助を観察しながらかるく|会釈《えしゃく》した。 「さっそく死体をごらんになりますか」 「はあ、できたらどうぞ」 「じゃ、どうぞ」  死体は白いシーツで頭までおおわれていた。山川警部補が胸のところまでまくったとき、 「あっ、ちょっとそのままで」  金田一耕助はまず被害者の顔をとっくり見ておきたかったのだ。  女はきめの細かい卵型の顔をしていた。前髪をみじかくきって額でそろえ、眉を細くそりこんでいる。長い|睫《まつ》|毛《げ》は付け睫毛の必要はなかったであろう。鼻がつんと上をむいてとがっているのは、そうとう気の強い性格だったろうことを想像させる。くちびるはルージュで赤く色どられているが、その紅の色もこの女の死相をかくすことはできない。  もはやいかなる男の心もとろかすことのできないむなしい|骸《むくろ》となっているせいか、異邦人の内妻という予備知識から想像していた|頽《たい》|廃《はい》的なものはそこになかった。卵型のおんもらとした顔ができのいい仏像でも見るように清らかで、それだけにこの無残な最期があわれなようである。年齢は二十七、八というところだろう。 「では、どうぞ」  山川警部補はおもむろにシーツをはいでいった。そのシーツが女の|爪《つま》|先《さき》まではぎとられたときも金田一耕助は顔色をかえなかった。かれの目は魚の生きのよしあしを観察する主婦のように冷静かつ熱心だった。  女はパンティひとつの裸身をあおむけに横たえていた。一メートル六〇くらいもあるだろうか、均整のとれたよい体をしている。金田一耕助は女の足の爪先の押しつぶされたような奇型を見て、この女の前身を推察することができた。ダンサーかなんかだったのだろう。  女の全身はきれいに洗われていた。そこにはもう血のにおいはなく、消毒剤か防腐剤のにおいをプンプンさせていたが、それでもひとめ見て死因はわかった。  むっちりと男の情欲をそそるように盛りあがった胸のふたつの隆起のうち、左側の隆乳の下が、縦二センチほど鋭くえぐられて裂けている。その裂け目に多少肉や皮膚のよじれが認められるが、そのみごとなひと突きに金田一耕助はおもわず溜め息をついた。刃物も鋭利だったのだろう。傷口の性質からいってそれは薄い両刃の刃物だったのではないか。 「有吉先生、死因はこのひと突きでしょうね」 「いや、詳しいことは解剖の結果をみにゃわからんが、だいたいそう思うとってまちがいないじゃろう。見たところ薬をのまされとるちゅう徴候は、どこにも見あたらんようじゃけんな」 「死亡の推定時刻は?」 「ゆうべの八時か八時半。ただし、これはごくおおざっぱな見当じゃよ。詳しいことは解剖の結果を見にゃわからんがな」  八時か八時半といえばまだ宵の口、しかし、この死体を乗せた自動車が路上に乗りすてられたのが、ゆうべの九時二十分ごろのことなのだから、それで|平仄《ひょうそく》があうのだろう。 「ときに、凶器はどんな種類のもんでしょう」  それに対する有吉医師の見解は金田一耕助とおなじであった。薄い両刃の刃物……それ以上のことは有吉医師にもわからなかった。凶器はまだ発見されていないのである。 「それで、暴行されたような形跡は?」 「いや、それはない」  有吉医師は|断《だん》|乎《こ》といって時計を出した。 「おや、もう十二時か。金田一先生、ほかになにか? わたしは急患を抱えこんでるんでな」  有吉医師はけさはやくたたき起こされたのでごきげんななめなのである。 「いや、ありがとうございました。いまのところそれくらいで」 「ああ、そう、疑問の点があったらいつでもききに来てくれたまえ。じゃ、また」  有吉医師が出ていくのを見おくって、等々力警部は山川警部補のほうへむきなおった。 「山川君、李のうちからなにか……?」 「そうそう、さっきこういう男が顔を出しました。署のほうで待ってるようにって警官をつけてやりましたが」  山川警部補の取りだした名刺には坂巻啓蔵とあり、江南産業という会社の営業部長をしているらしい。江南産業というのは築地に事務所があるらしく、所や電話番号も入っている。 「この江南産業というのは?」 「この女の旦那か亭主かしりませんが、李泰順という男がやってるんですね。台湾むけの貿易業らしいんですが、あまり大きな会社じゃないらしいことは、あとで李の住居をごらんになればおわかりでしょう」 「ところで、その李という男はどうしてるんです。いま家にいるんですか」  等々力警部は警部補と視線をかわして、 「いや、ところがその李は目下旅行中だそうです」 「旅行中……? どこへ」 「神戸へ商談があってたったんだそうです」 「いつ?」 「ゆうべ」  と、等々力警部はわざとさりげなく、 「昨夜の銀河か明星でたったはずだということになってるんです。銀河だと八時四十分、明星だと九時十分。山川君、ふたつの列車は何時にむこうへ着くことになってるんだね」 「銀河だと神戸へ七時四十五分、明星だと大阪へ七時四十四分着の予定なんですが、警部さん」 「ああ」 「李がほんとにむこうに着いてるかどうかたしかめて、もしむこうにいたらここにいる江馬君に迎えにいってもらおうかと思ってるんですがね」 「そりゃいいだろう。新井をつけてやろう。江馬君、新井にもそういって、さっそく手配をしてくれたまえ」 「承知しました」  江馬刑事が出ていくのを見おくって、山川警部補は金田一耕助のほうへむきなおった。 「李が銀河でたっても明星でたってもアリバイにゃならんと思うんです。銀河は八時四十分、明星は九時十分ですからね。|朱《あけ》|実《み》の殺害時刻を八時とすると、銀河は多少むりとしても、明星にゃ十分まにあいますからね」 「しかし、山川さん、犯人が死体をのっけた自動車をあそこへ乗りすてたのは九時二十分ごろのことなんですよ。それじゃ九時十分の明星だって……」 「いや、金田一先生、あの自動車の発見されたのが九時二十分ごろなんで、車はもっとはやくから……八時半ごろからあそこにあったのかもしれません。いまききこみをやらせているところですがね」 「なるほど、それだと話がちがってきますね」  金田一耕助はちょっと考えて、 「ときに、この女朱実ってんですか」 「ええ、そう、本郷朱実と名乗って去年の秋まで赤坂へんのナイトクラブに勤めていたそうです」 「いったい李の家族というのは?」 「李と朱実、ほかに古川ナツ子という女中の三人きりなんです」 「じゃ、李が銀河か明星で大阪へたったはずだということをしっていたのは?」 「それは女中の古川ナツ子です。ナツ子のいうのはこうなんですね」  山川警部補は思い出したように朱実の死体をシーツでおおうと、 「きのうの夕方李はいちど家へかえってきたそうです。そして、急に大阪へ出張しなければならなくなったからって、ボストンバッグに荷物をまとめて六時過ぎに家を出てったんだそうです。銀河か、それに遅れたら明星にするって。そのすぐあとで女中の古川ナツ子も家を出て、すぐこのさきの|狛《こま》|江《え》にじぶんの家があるんで、そこへいって泊まってるんです」 「えっ?」  と、金田一耕助は聞きとがめて、 「それは急にそうなったんですか。いや、主人の大阪いきじゃなく、女中さんのほう……」 「いや、このへんは毎月二十二日が全店休みで、ナツ子もその日が公休日になってるんだそうです。だから毎月二十一日の夕食後、後かたづけをすると、ナツ子はひまをとって帰ることになってるんだそうです。家がいまいったとおり、すぐこのつぎの駅の狛江ですから」 「すると、けさのこの事件が発見されたとき、女中は家にいなかったんですね」 「ええ、そう、しかしさいわい出入りのご用聞きがナツ子の家をしってたので、すぐ呼びにやったんです。ナツ子はいま家にいますから、おききになりたいことは直接どうぞ」  金田一耕助はうなずきながらこの問題はいちおうそれとしておいて、死体のまくらもとに目をやった。そこには脚つきの乱れ箱と小卓がある。乱れ箱には女の衣装がぬぎすててあり、小卓のうえには持ち物が陳列してあった。  朱実は中国風にすそのわれたタイトスカートに、|牡《ぼ》|丹《たん》|色《いろ》の半そでのブラウスを着ていたのだ。ブラウスにもあまりけばけばしくないていどに、中国風の|刺繍《ししゅう》がしてあり、左前でボタンでとめるようになっているデザインといい、髪のスタイルといい、おそらく朱実は男の趣味風俗に同化しようとしていたにちがいない。このブラウスの左の胸に二センチほどの裂け目があり、それが下着とぴったり一致するところをみると、朱実はブラウスのうえから刺されたのだろう。ブラウスも下着もぐっしょりと血にぬれていた。  金田一耕助はそれをおくとビニールのレーンコートを取りあげた。それもおびただしい血にぬれていたが、斬り口はどこにもなかった。 「被害者はレーンコートを着ていたんですか」 「着ていました。ただし腕をとおしていただけでボタンはかけていなかったんです。ここに写真がありますからごらんください」  それはトランクのなかに詰めこまれている女の死体を、いろんな角度から撮影した数枚の写真で、なるほどどの写真でも女はレーンコートに腕をとおしているが前は開いている。  金田一耕助はその写真を見くらべているうちに、はっとかたわらの小卓に目をやった。  五枚ある写真のうち三枚には女の胸のへんが写っているが、そのどれにも胸もとにトランプのカードのようなものが写っている。ぐっしょり血にぬれているのでよくわからないが、なにかのクイーンのようである。しかも、おなじカードらしいのが小卓のうえにある。 「ああ、このカード」  金田一耕助の物問いたげな目にこたえて、等々力警部はそれを手にとると、 「このカードが死体の胸もとにおいてあったんです。どうしてこんなものが死体のそばにあったのか……よくごらんになってください」  真っ赤に染まったそのカードはハートのクイーンであった。しかも、そのカードの中央には鋭い刃物でさしつらぬかれたような二センチほどの裂け目がある。  金田一耕助ははっと死体の胸の傷を思った。かれはいそいで乱れ箱から牡丹色のブラウスを取りあげると、その裂け目のうえにハートのクイーンをおいてみた。裂け目は完全に一致した。 「金田一先生、いったいこれはどうしたというんでしょうねえ、犯人は被害者の胸のうえにトランプのカードをおいて、そのうえから鋭利な刃物で刺したというわけですかな」 「それじゃ被害者がおとなしくしてるわけがない?」  山川警部補らしいおだやかな調子だったが、その語気には十分抗議のニュアンスが感じられた。 「そりゃそうだ。被害者がだまってそんなことをさせておくはずがない。それに犯人はなんだってそんなことをやる必要があったんだ。心臓をねらうための標的として、カードを使ったわけじゃあるまいしね」 「そうだとしたら被害者は眠ってたってことになりますね。しかも、心臓をえぐられるのにおあつらえむきのあおむきの姿勢で……」 「夜の八時ごろにかい。ゆうべは蒸し暑かったんだぜ。ブラウスに下着を着て……?」 「眠り薬をのまされていたというのはどうでしょう」 「しかし、現場はどうなんだい。被害者はあおむけに寝てたようじゃなかったぜ。しかし、いちおうその意見も考慮にいれとかなきゃいかんな。解剖すればわかることだが……」  金田一耕助は無言のままふたりの押し問答をきいていたが、 「凶器はまだ発見されていないんですね」 「はあ、まだ……」  山川警部補の答えるそばから等々力警部が、 「金田一先生、先生のお考えはどうです。被害者はなんだって心臓のうえにトランプのカードをおかれるのを、黙って見ていたんでしょう」 「それは解剖の結果を見てからでもおそくはないんじゃないですか。それより山川さん」 「はあ」 「ここにあるのが被害者の持ち物のすべてなんですね」 「はあ、ナツ子に見てもらったんですが、みな被害者のものにちがいないそうです」  小卓のうえにはカードのほかに真珠のイヤリング、|翡《ひ》|翠《すい》をちりばめた|楕《だ》|円《えん》|型《けい》のブローチ、ほかにルビーの指輪が一個。  金田一耕助は宝石についてはひとかどの鑑識眼をもっている。それらのアクセサリーはいずれも本物だった。これらの装身具だけでもそうとうの金目のものである。それに手をつけていないところを見ると、犯人の目的が物盗りではなかったことだけはたしかである。  小卓のうえにはもうひとつ、|錆《さび》|朱《しゅ》|色《いろ》をしたハンドバッグが投げだしてある。|手《て》|触《ざわ》りのごつごつしたデラックスな|鰐《わに》|革《がわ》だ。なかにはべつにこれといって変わったものはなかった。  コンパクト。ルージュに|紅《べに》|筆《ふで》に|眉《まゆ》|墨《ずみ》等の化粧道具。マニキュアのセット。ハンカチがしめて三枚、紙入れのほかに皮製の硬貨入れ。|櫛《くし》、手帳とボールペン。もぎりのあとの映画館の切符。切符とおなじ映画館のプログラム。ほかに五個の鍵のぶらさがった金属製の環。  以上がハンドバッグの内容だが、紙入れのなかには三万二千円あまり入っていた。 「山川さん、この手帳の内容は……?」 「べつにこの犯罪を暗示するようなものは見あたらんようです。いずれ詳細に検討するつもりですが……」 「ところで、さっきの警部さんのお話によると、殺人現場はこの女の家のこの女の居間らしいということでしたが、死体がレーンコートを着ているのは……?」 「外出のしたくをしてるところをやられたんじゃ……?」 「外出のしたくをしてるところを……?」  なるほど、それではトランプのカードを心臓のうえにおいて刺されたというのではおかしくなる。 「しかし、山川さん、外出のしたくをしてるところをやられたとしても、ハンドバッグまでもっているというのは?」 「いや、それについて山川君はこういう意見をもっているんだ。つまり、犯人は犯行の現場をくらまそうとしたんじゃないか。殺人はどこか女の外出先で行なわれた……と、そう工作することによって、じぶんの立ち場を有利にしようと試みたんじゃないかというのが山川君の説なんだがね。だから、レーンコートもあとから着せたし、ハンドバッグなどもわざともちだしたんだろうと……」 「なるほど」  金田一耕助はしばらく無言のまま考えていたが、山川警部補の意見にたいして、自己の感想をのべることはさしひかえた。 「それじゃ、ここはまあこれくらいにしておいて、つぎにいよいよ殺人の現場というのを見せていただきましょうか」      四  李泰順の家は自動車の発見されたところから五百メートルあまり。そこは成城町のいちばん北の端に当たっており、平家建ての、おせじにも上等の建物とはいいかねた。  ちかごろこのへんでは外人むきの借家をたてることがはやっている。おおむねちゃちなペンキ塗りの|安《やす》|普《ぶ》|請《しん》だが、李の家もそういう借家のひとつであることがあとでわかった。それでいて家賃はそうとう高いのだ。  金田一耕助はなかへ入るまえに家の周囲を見まわしたが、なるほどそこは殺人の現場としてはうってつけの場所と思われた。  この家から北はいちめんの麦畑で、南側にはいま新しい家が建築中だ。東側は六メートルの道路をへだてて家があるが、李の借家とちがってそうとう豪勢な家で、門から建物までだいぶん距離がありそうだ。西側は|芋畑《いもばたけ》で、芋畑のなかに高い鉄塔が立っており、高圧線が走っていた。高圧線はたえず一種のうなりを発している。このへんいったい開けるのがおくれたのは高圧線のおかげらしく、李の家は離れ小島のように孤立していた。  門を入ると左側にちかごろはやりの屋根だけおおうた車置き場があり、その車置き場のむかいが玄関だ。青いペンキを塗った粗末な玄関で、玄関わきに立ちアオイの花がどくどくしい色を見せて咲いていた。  玄関を入るとせまいくつ脱ぎ、くつ脱ぎのおくが十畳じきほどのホール。そこが応接室兼家族の娯楽室になっていたらしく、部屋の一隅にはテレビ。壁には|墨《ぼっ》|痕《こん》|淋《りん》|漓《り》たる横幅の額。世界地図だのカレンダー。テレビの反対側のすみには殺風景な事務机。太い朱塗りの状差しは竹製で、中国風の|団扇《う ち わ》が装飾のように二、三本さしてあった。  これを要するに横幅の額や中国団扇のほかは、とくに中国人の住居であることを強調するようなムードはほとんどなく、ただ雨露をしのげば足りるという、しごく簡粗なものがこの家全体を支配していた。  金田一耕助の一行がホールをぬけて奥の廊下へ入ると、奥のほうにわかい娘が不安そうに立っていた。古川ナツ子であろう。それを尻目に左側の部屋へ入っていくと、 「やあ、金田一先生、お待ちしてましたぜ。ひとつまたよろしく頼みますよ」  威勢よく声をかけたのは志村刑事だ。金田一耕助はおもわずくちびるをほころばせた。  この小ザルとあだ名のある老練刑事は、べつに顔がサルに似ているわけではないが、いつも|短《たん》|躯《く》に|精《せい》|悍《かん》の気をみなぎらせている。 「やあ、志村さん、またひとつ仲よくけんかしましょうや」 「仲よくけんかはよかったな。ひとつお互いに負けずにやりましょう」 「ときに、志村君、その後なにか……?」 「それがいっこうに。犯人はなかなかわれわれに|土産《み や げ》はおいといてくれませんや。ときに金田一先生」 「はあ」 「いちおうこの部屋をごらんになるでしょう。ここがいまんとこ殺人現場と見なされてるんです。先生がいらっしゃるてんで、なんにも手をつけずそのまんまにしときましたよ」 「いや、それはどうも」 「おおい、みんな出ろ。金田一先生がこの部屋をよく見たいとおっしゃる。おまえたちがうろちょろしてるとじゃまっけだあな」  若い刑事がふたりいたが志村刑事に|一《いっ》|喝《かつ》されると、苦笑しながらガラス戸の外へ出た。ガラス戸の外は|鉄《てっ》|平《ぺい》|石《せき》をたたみこんだ広いテラスになっており簡粗な|籐《とう》のいすテーブル。  金田一耕助は改めて部屋のなかを見まわした。  六畳くらいの小部屋である。ホールの殺風景なのに反して、ここはさすがに女の部屋らしく、三面鏡に用だんす、フランス人形やこけし人形。ホールの床がむきだしなのに反して、ここには|真《しん》|紅《く》の|絨毯《じゅうたん》がしきつめてある。テラスにむいたガラス戸の内側にも|朱《と》|鷺《き》|色《いろ》のカーテンが、この部屋に温かみをそえている。  テラスに面した片隅に書き物机がすえてあり、机のうえにトランプのカードが並べてあるのが金田一耕助の目をひいた。カードの配列はかなり乱れているが、ひとり占いのペーシェンスらしい。いすが倒れ、机のうえのフランス人形が倒れているところを見ると、だれかがペーシェンスをやっているうちに、それを妨げるなにかがあったのであろうか。 「金田一先生、これ」  山川警部補が差しだしたのは中央をさしつらぬかれた血染めのカード、ハートのクイーンだ。それはあきらかにそこに並んでいるトランプとおなじ種類のカードである。 「金田一先生、これはどういうことでしょう」  山川警部補は顔をしかめて、 「朱実はここでトランプのひとり占いをやっていた。そこへ犯人がやってきてハートのクイーンを取りあげた。それを朱実の胸に押しつけてぐさりとひと突き……」 「それはどう考えても不自然ですね」 「だけど、金田一先生」  と、小ザルの志村刑事が歯をむきだして、 「じゃ、トランプの傷と死体の傷、いや、ブラウスや下着の傷とぴったり一致するのはどういうんです。こりゃ、やっぱりブラウスのうえから心臓に押しつけられ、犯人はそこをねらってぐさりとひと突き……」 「しかし、志村さん、犯人はなんだってそんなやっかいなことをしなきゃならなかったんです」 「そりゃわたしにもまだわからねえ。だけどわたしのいってるのは理由じゃねえんだ。わたしのいうのは、とにかく犯人はトランプを女の心臓のうえにおいといて、それをねらってぐさっとひと突き。それでなきゃあんなにうまく刺し傷が一致するはずがねえもの。金田一先生にゃなにかうまい考えがありますかね」 「しかし、それにしちゃ志村さん、ここにある血の量が少ないとは思いませんか」  真紅の絨毯のうえに青いチョークで円がかいてあるのは、そこに血がひとかたまりあるからだ。その血は絨毯の保護色で目立つことが少ないとしても、ここで刺されたとしたらその量はたしかに少ないようである。 「そりゃ金田一先生、刃物を胸に突き刺したままで抜かなかったからでさあ」 「えっ?」 「刃物で刺しただけじゃ血はそれほど出ないもんでさあ。刃物を抜くとき血が噴出する。犯人は被害者の胸に刃物を突き刺したまんま、あのトランクに詰めこんだんですぜ」  金田一耕助はぎょっとしたように志村刑事を見直した。金田一耕助じしんたくさんの死体を見てきている。いま志村刑事のいったことくらいは心得ていた。しかし、そういうケースがこの事件に当てはまるかどうかと、志村刑事の顔色をうかがっている。 「しかし、志村君、その凶器はどうしたんだ」 「だから、主任さん、自動車があそこでエンコしたとき、犯人がそいつを抜きとっていったんでさあ。だから田村巡査もいってたじゃありませんか。自動車がエンコしたあとで犯人がトランクを開いたにちがいねえって」 「だけど、なぜ凶器を抜きとっていったんだ」 「そこまではわたしにもわかりませんや。凶器をのこしとくと足がつくとでも思ったんじゃありませんかね。それにねえ、主任さん」 「うん」 「犯人が殺人の現場をごまかすために、死体を外へ運びだそうとしたんだろうってことは、あんたがいちばんにいいだしたこってすぜ。死体をほかに運びだすのに血だらけじゃ困るじゃありませんか。だから、できるだけ血をこぼさねえように凶器を胸に突ったてたまま、死体をトランクに詰めたんでさあ。金田一先生、あんたどうお思いになります?」 「いや、志村さん、恐れいりました。これはたぶんあなたのおっしゃるとおりでしょう」  金田一耕助は率直に頭をさげると、床の血から卓上にあるカードの束に目をやった。まだ配られていない残りのカードのひと束だ。  金田一耕助はそのひと束を手にとって一枚一枚調べはじめた。ハートのクイーンが欠けていた。ハートのクイーンは場にも出ていなかったし残りのひと束のなかにもなかった。 「金田一先生……」 「あっ、ちょっと志村さん」  志村刑事をかるくおさえて金田一耕助は手にあるカードをかぞえはじめた。手にあるカードは十六枚、場に並んでいるのが二十枚、エースから順にあがったのが十四枚。しめて五十枚である。 「おや……」  金田一耕助はまゆをひそめてつぶやいた。  トランプのカードはジョーカーをふくめて五十三枚がふつうである。ペーシェンスではジョーカーを使わないからデスクのはしに取りのけてある。残りは五十二枚だが、そのうちハートのクイーンは血に染まって、山川警部補の手に握られている。だから五十一枚なければならないはずだのに、じっさいには五十枚しかそこにはなかった。 「金田一先生、カードの数が足りないんですか」  等々力警部がのぞきこんだ。  金田一耕助はうなずきながらもういちどていねいに数えなおして、 「やっぱり一枚足りないようです。志村さん」 「はあ」 「あなたひとつなにが足りないのか調べてみてくれませんか」 「ちきしょう!」  刑事は屈辱のために真っ赤になった。真っ赤になるとサルに似ている。  志村刑事はいそいでカードをならべはじめた。カードの種類別にエースから順に並べていくと、足りない一枚はハートのジャック。 「ちきしょう!」  志村刑事はあわてて机のまわりを探しはじめた。じぶんだけでは足りないで、ふたりの刑事に命じてテラスから庭のほうまで探させたが、ハートのジャックはどこにもなかった。 「いや、どうも、金田一先生、これはわれわれの大失態でした。それにしてもここにもう一枚、ハートのジャックが欠けているというのには、なにか意味があるんでしょうか」 「さあ、それはわたしにもまだわかりません。偶然に欠けているのかそれともだれかが故意に持ち去ったのか……」 「金田一先生」  志村刑事もいくらか神妙になっていた。 「だれかが持ち去ったとすればそれはどういう意味でしょう。もしや……」 「もしや……?」  等々力警部はききかえして、鋭く志村刑事の顔を見すえた。 「あっはっは、あたしゃどうも金田一先生が乗りうつったらしい。いやに推理力が発達してきましたぜ」 「その推理力とはどういうんだ」 「いえさ、ハートのクイーンは死体といっしょに発見された。しかも、トランプのまんなかを鋭い刃物でえぐられて。おまけに凶器は紛失している。そこへもってきてハートのジャックが紛失してるとあれば、こいつも死体といっしょに発見されるんじゃねえかとね。金田一先生」 「はあ」 「こういうのを推理力というんじゃねえんですかい」 「あっはっは、そういうのは推理力たあいわないようです」 「じゃ、なんです、こういうのは?」 「そうですね」  金田一耕助はにやにやしながら、 「そういうのを根拠のない、でたらめの当てずっぽうというんでさあ。あっはっは」      五 「古川ナツ子君だね」  表の応接室兼娯楽室で金田一耕助と相対したナツ子は、中学を出たばかりの年ごろで洗いざらしのワンピースを着て落ちつかなかった。 「君、この家にはいつごろからいるの?」 「そのことならさっきこのおじさんたちに話したんですけれど……」  ナツ子は山川警部補と志村刑事を指さして、いささか不服そうである。 「いやね、ナツ子ちゃん」  山川警部補がおだやかに、 「このおじさん直接ナツ子ちゃんの口からききたいとおっしゃるんだ。なんでもこのおじさんの質問に答えてあげなさい」  ナツ子は少女らしい好奇心にみちた目で、金田一耕助の風体を見ていたが、おもわずクスッと失笑した。失笑してからあわてて、 「あら、ごめんなさい。でも、おじさん、どういうひとなの?」 「そうさな」  面とむかっての質問に金田一耕助はてれかげんで、 「おじさんは私立|探《たん》|偵《てい》というやつなのさ」 「おじさん、私立探偵なの?」 「そうだよ、ナツ子君、このおじさん妙な格好してるけど、とってもえらい私立探偵なんだよ。どんなむずかしい事件でもこのおじさんにかかるとお茶の子さいさいさ」 「まあ」  等々力警部の説明にナツ子は目を見はって、金田一耕助の顔を見つめていたが、 「でも、おじさん、パイプ持ってないわね。それにコカイン注射する?」  このとっぴな質問に金田一耕助もめんくらった。 「ナツ子君、それどういう意味なんだい」 「だって、シャーロック・ホームズはいつもパイプくわえてるし、コカイン注射するわよ」 「あっはっは、ナツ子君は探偵小説のファンなのかい?」 「そうよ、すごくおもしろいんだもん」 「いやね、ナツ子君、このおじさんまだシャーロック・ホームズほどえらくないから、パイプくわえたり、コカイン注射したりしないけど、私立探偵は私立探偵なのさ。それでね、ナツ子君」 「ええ」 「こんな事件が起こったときにゃみんなが正直に話をしなきゃ、いかにシャーロック・ホームズでも、うまくいかないってことナツ子君もしってるだろ」 「そうね。みんなうそつくのね。ホームズ困るのね。でも、ホームズは名探偵だから、おしまいにはちゃんと犯人つかまえるわよ」 「だけどこのおじさんホームズみたいな名探偵じゃないから、正直にいってもらわなきゃ困るのさ。ナツ子君正直にいってくれるね」 「いいわ。あたし私立探偵大好きよ。ほんものの探偵好きじゃないけどな」 「こいつめ、こいつめ!」  と、志村刑事がなにかいいかけるのを、金田一耕助がさえぎって、 「じゃ、さいしょの質問にかえって、ナツ子君はいつごろからこの家にいるの?」 「去年の秋から。あたし去年の春中学を出て、はじめんちおうちの手伝いしてたの。おうち百姓だからおもしろくないでしょ。そしたら三河屋のキンちゃんが世話してくれたの」 「三河屋のキンちゃんてだれ」 「あら、キンちゃんしらないの。すごくハンサムよ。あたしキンちゃんときょう映画見にいくことになってたのに……」 「三河屋のキンちゃんてのは出入りの酒屋の小僧ですよ」 「あら、小僧じゃないわよ。店員よ」 「そう、そう、店員、店員」 「そうよ、キンちゃんこのへんじゃ顔なのよ。そいであたしをここへ世話してくれたの」 「そのときこの家にゃ旦那さんの李泰順さんと奥さんの朱実さんとふたりきりだったの?」 「そうよ、せんには静子さんて奥さんがいたんだって。でも、そのひとが逃げてしまったんで、こんどの奥さんがきたんだって」 「どうしてせんの奥さん逃げだしたんだい」 「うっふっふ」  ナツ子は鼻の頭にしわをよせて笑うと、 「これキンちゃんに聞いたんじゃないのよ。キンちゃんお得意さんのことしゃべったりしないわ。だけどほかの小僧さん……じゃなかった、店員さんよくしゃべるわ。そいであたししってるんだけど、うちの旦那さんすごいやきもちやきなんだって。そいでなんべん奥さんもってもつづかないんですって。みんな閉口して逃げだしてしまうんですって」 「そんなになんにんも奥さんかえるのかい」 「そうだって話だわ。あたしよくはしらないんだけど」 「それでこんどの奥さんどうだった。やっぱり旦那さんやいてた?」 「そうとうのもんだったわ。うっふっふ」 「ぶったり、けったりするのかい?」 「ううん、せんはそうだったんだって。そいでみんな逃げだしたのね。でも、あたしがきてからはいちどもそんなことなかったわ」 「じゃ、どんなふうにやくんだい」 「あたしをスパイに使おうとしたわ」 「スパイに? ああ、そうか。旦那さんの留守中に奥さんが浮気しやあしないか、気をつけてくれってわけだね」 「そうよ、そのほかどこから電話がかかってきたの、手紙の上書きは男か女か、女みたいに見えても男の手じゃなかったかなんて、そりゃもううるさいったらないのよ」 「だれか奥さんのお友達でちょくちょくここへ訪ねてきたひとある?」 「いいえ、そんなひとひとりもなかったわ」 「ひとりも?」 「そうよ。旦那さんがやきもちやきだってことしってたのね。だから気イつけてたのよ、きっと」 「でも、手紙やはがきはきたんだね」 「ええ。それに電話もね」  電話といったとき、ナツ子のことばは一種特別のニュアンスをもっていた。 「なにか電話に妙なことあったの?」 「ええ、それはこうなの」  ナツ子は子細らしく一同を見わたして、 「あたし毎月きょうがお休みなの。だからゆうべからお暇をもらって明日の朝までにかえってくればよいことになってんの。そんなとき奥さんあたしの留守中にどこかへ出かけるらしいの。その日が日曜日で旦那さんがうちにいるときはべつだけれど」 「ふむ、ふむ、それで……?」 「それで、奥さんが出かけられない日があるでしょ。そしたらつぎの日かならず男のひとから電話がかかってくるのよ」 「どんな電話?」 「そんなことわかりゃしないわ。あたしがきくんじゃないんだもん。でも、そんなとき奥さんいつもしどろもどろよ。それにあたしにきかれるのをいやがって小声でしょ。だから、あたしいつも耳をふさいでてあげたのよ」  その電話はこの応接室兼娯楽室のすみにある。ナツ子の部屋はいちばんおくまったところにあるが、耳をすませばきこえるにちがいない。 「ナツ子君はその電話取りついだことある?」 「ええ、二、三度」 「どんな感じだった。まだ若い男、年寄り?」 「そうねえ」  ナツ子はもったいらしく小首をかしげて、 「声だけじゃわかんないけど、若いひとじゃない」 「じゃ、そのひと奥さんの恋人かい?」 「そうかもしんないし、そうでないかもしんないんだ。奥さん、そのひとにしぼられてんじゃないかって気がしたことあるもん」 「どうしてそんな気がしたの、ナツ子君は?」 「だって、奥さんそのひとから電話がかかるとセンセンキョウキョウよ。いつだったかこんなこといってんのがきこえたのよ。あたしべつに盗みぎきしてたわけじゃないけど、この家せまいでしょ。だから……」 「それで、どんなこといってたの?」 「こんな調子なの。どうしても都合がつかなかったのでいけなかった、二、三日うちには約束のものを作って持ってくからって、そりゃ泣きそうな声出して哀願してんのよ。つい夢中になったもんだからあたしにきこえるような声出したのね。だからあたし思ったの。ははあ若き|燕《つばめ》こさえてその燕にしぼられてんだな。そいで旦那さんやきもちやくんだなって」  金田一耕助はほかの三人とおもわず顔を見あわせた。  朱実が哀願していたのは捨てられることを恐れてか。それとも朱実はだれかに|恐喝《きょうかつ》されていたのではないか。 「ナツ子君はそのことを旦那さんに話した?」 「ううん、そんなこといわない」 「どうして? ナツ子君は奥さんの同情者?」 「うそよ。あたしどっちかってえと旦那さんの同情者よ」 「どうして?」 「だって旦那さん、とってもいいひとよ。親切で、思いやりがあって、いばったりしないで。やきもちやくんだって奥さんが好きだからよ。そうじゃない?」 「そりゃそうだろうね」 「それを奥さんが浮気するから旦那さんやくのよ。あたし旦那さんかわいそうだと思ったわ」 「じゃなぜ電話のこといってあげなかったんだい?」 「だって、スパイみたいなまねすんのいやだもん」  ナツ子は|昂《こう》|然《ぜん》と胸を張っていってのけた。 「そりゃそうだね。ときにナツ子君、その男名前はなんてんだい?」 「そうそう、それが妙な名前なのよ」 「妙な名前って?」 「ソノジっていうの。あたしいちどソノジってどんな字書くんですかってきいてやったらどなられたわ。ソノジって名前聞いたことある?」  それはおそらくソの字[#「ソの字」に傍点]であろう。うえにソの字のつく苗字、それが朱実を脅迫していた男なのだろう。 「それじゃナツ子君、こんどはゆうべのことをきかせてもらおう。旦那さんゆうべ大阪へ立ったそうだがまえからそんな話あったの」 「いえ、まったくだしぬけだったわ。奥さんだってびっくりしてたのよ」 「じゃ、そのときのようすをもっと詳しく話してくれたまえ」 「ええ、いいわ」  ナツ子はちょっと考えるふうをして、 「あれ、五時半ごろだったわ。旦那さんがかえってきて、急に大阪へ立つことになったから、ボストンバッグの用意をするようにって、足もとから鳥の立つような騒ぎだったわ。そいで奥さんがしたくをしてあげるとそのまんま飛びだしていったわ。あれ、六時か、六時ちょっと過ぎのことだったわね」 「自動車はもちろんおいてったんだね」 「そりゃそうよ、あんなおんぼろ自動車で大阪までいけやしないじゃないの。留守中はいつも奥さんが乗りまわしてた」 「ああ、そう。奥さんも運転できるんだね」 「ええ、そうなの。キャバレーかナイトクラブにいたじぶん習ったんだって」 「ああ、そう。それからどうした? 旦那さんが出かけてから?」 「あれ、ちょっとおかしかったわね」 「おかしかったってなにが?」 「こっちの奥さんとっても人使いが荒いのよ。サラリー払ってるからにゃ使わなきゃ損みたいにこき使うの。そいでじぶんはなにしてるかってば、いつもトランプばっかりやってる。ひとりで」 「いつもひとりでトランプばっかりやってたのかい?」 「そうよ。よくあきずにやれるもんだと思うくらい。だからあたし思ったことあるわ」 「なにを」 「この奥さんなにか心配ごとがあるんだわ。じっとしてると苦しくなるか、ぼんやり考えてるとあたしに怪しまれるでしょ。それをごまかすためにあんなにおんなじことばかりやってんだって」  シャーロック・ホームズのファンだけあって、ナツ子の観察はなかなか鋭い。しかもそれは真実をついているのではないか。 「ところがゆうべに限ってその人使いの荒い奥さんが、ご飯がすむと後かたづけはあたしがするの、月にいちどの休暇だからとお|追従《ついしょう》たらたら、だからあたしははーんと思ったのよ」 「ははーんとどう思ったんだい?」 「この奥さん、旦那さんが留守になったのをさいわいに、ソノジさんと連絡するつもりなんだわ。そいであたしがいちゃまずいんだわ、と、そう思ったもんだからありがたく好意をおうけしてあげたの。うっふっふ」 「それからまっすぐにお家へかえって、けさ警察から連絡があるまでなんにもしらなかったわけだね」 「そうよ、キンちゃんが警察のひと連れてきたとき、ほんと、びっくりしちゃった。でも……」 「でも……?」 「ええ……でもねえ」  ナツ子の態度が急に煮えきらなくなったので、四人ははっと顔見あわせた。志村刑事がなにかいおうとするのを金田一耕助がおさえて、 「ナツ子君、さっきおじさんと約束したね。なんでも正直に話をするってさ。さあ、なにかしってることがあったら、かくさずにおじさんに話しておくれ」 「でもねえ、これ、ひょっとしたらぜんぜん関係のないことかもしんないんだもん」 「関係があるかないかを判断するのはシャーロック・ホームズのやることだよ。ナツ子君はしってることを話してくれりゃいいんだ。そうじゃないかね、ナツ子君」 「いいわ、じゃ、話すわ」  ナツ子はうわめ使いにちょっと|品《しな》を作って考えるふうをしていたが、 「あれ、きのうの四時ごろのことよ。もっと早かったかしら、あたし駅のほうまでお使いにいったの。そんなときあたし裏口から芋畑へ出て、高架線の鉄塔の下を通ってあっちの道へ出んの。そのほうがよっぽど近道になんのよ。そしたら道のわきに竹やぶがあるでしょ。その竹やぶんとこに自動車が一台とまってたの。トヨペットだったわ」 「ふむ、ふむ、それで……?」 「新車のぴかぴかした車だったから、イカスわねえってあたしその車のまわりまわってみたわ。車のなかにはだれもいなかったの。そいであたしそのまんまお使いにいったんだけど、そいから四、五十分してかえってきてそこを通ると、トヨペットまだそこにいるのよ。しかもひとはだれもいないの。そしたら……」 「ふむ、ふむ、そしたら……?」 「六時半ごろ奥さんにお暇もらってお家へかえるとき、あたしまた芋畑ぬけて竹やぶのほうへ出たの。そしたらまだその自動車そこにいるじゃない?」 「おなじ自動車なんだね」 「もちろんよ。だけどこんどは運転台にちゃんとひとが乗ってたの」 「男? 女?」 「もちろん男よ。いまから思えばあの男ちょっとおかしかったわ」 「おかしかったというと?」 「だってこの暑いのにレーンコート着てんの。それからあれどういうの。猟するひとがかぶってる帽子、|鳥《とり》|打《うち》|帽《ぼう》というのかしら。でも、ふつうの鳥打帽じゃなくもっとごちゃごちゃした帽子よ。あれをかぶっておまけに大きなちりよけ眼鏡かけてんの。まだ自動車走ってもいないのに」 「そりゃたしかにおかしいね」 「でしょう。おまけにもっとおかしいの」 「もっとおかしいって?」 「そのひとハンドル握ってあたりのようすをうかがってたらしいの。そしたらだしぬけにあたしがやぶんなかから飛びだしたでしょ。びっくりしたのか急にハンドルにもたれて居眠りしてるふうをすんの。おかあしくって」 「ナツ子君はそのことについてどう解釈してるんだね」 「そうねえ」  ナツ子は子細らしく首をかしげて、 「そんときはいやなやつと思ったきりで気にもしてなかったの。でも、こんだみたいなことがあると気になるでしょ。そこであたしいろいろ推理してみたのよう」 「よし、ナツ子君の推理というのをきかせてもらおう。どう推理したんだね」 「あんまりおだてちゃだめよ。でも、こんなときって人間だれでも考えるもんじゃない? あたしの考えはこうなのよ。そのひとだれかを見はってたのね。でも、このへんほかにお家ないでしょ。だから見はってたとするとこの家しかないわ。そのひときっと旦那さんが今夜旅行することしってたのよ。だからあたしがいなきゃこの家奥さんひとりだってこともしってたにちがいないわ。だからあたしが出ていくのを待ってたのよ。でもあんなとこから飛びだしてくるとは思わなかったんで、あわてて顔をかくしたんじゃないかと思うの」 「あわてて顔をかくしたように見えたの」 「そうよ。だからあのひとあたしのしってるひとかもしんないわ。だからこそちりよけ眼鏡や鳥打帽で顔かくしてたのよ」  ナツ子の説はたぶんに独断的である。  第一、ナツ子じしんもその男がこの事件に関係があるかないかわからないといっている。それが話をしているうちに興奮してきて、彼女の頭脳のなかで真実らしい幻影がつくりあげられたのだ。犯罪事件の証人によくある例で、|鵜《う》|呑《の》みにするのは危険である。しかし、金田一耕助もほかの三人もこの話に魅力をかんじた。 「するとナツ子君の考えでは、その男が君の出ていくのを待ってここへ入りこみ、奥さんを殺したんじゃないかっていうんだね」 「そ、そ、そんなことないわ」  ナツ子は急に|臆病《おくびょう》になってきた。 「ただそんなひとがいたってことだけよ。そのひとが犯人だなんていいやしないわ」 「その自動車のナンバーおぼえてない?」 「それなのよう」 「それなのようとは……?」 「お使いからかえってきたときまだその自動車いたでしょ。からっぽのまんまで。そんときナンバー見たの。だけど忘れちゃった。白ナンバーだったことはたしかだけど」 「ナツ子君」  金田一耕助はちょっときびしい目になって、 「それ思い出せない? 君わざわざそのナンバー見たんだろ。君みたいな頭のよい子が忘れちまうのおかしいじゃないか」 「おだてたってだめよ。あたしあんまりお脳強くないの。だけどあとの|二《ふた》|桁《けた》おぼえてる。あたしとおない年だったんだもん」 「ナツ子君いくつ?」 「十七」 「すると下二桁が一七と、そのうえのほうおぼえてない?」 「だめよ。だってほんの冗談だったんですもの。ナンバー見たっての。まさかこんなことが起こるとはしらなかったんですものね」 「トヨペットだったことはたしかだね」  志村刑事が手帳にひかえながら念をおした。 「ええ、そうよ、トヨペット・クラウンだったわ。新車のぴかぴか、キンちゃんだったらきっと詳しいことわかったんだけどな」 「志村君、四時から六時半ごろまでそこに駐車してたとしたら、ほかにも見たものがあるかもしれない。きみ、当たってくれたまえ」 「承知しました。そいでナツちゃん、いや、ナツ子君」 「なによ」 「乗ってた男の人相や年ごろわからないかい。年寄りか若いもんか」 「それがぜんぜん。あたしの顔を見るとすぐハンドルのうえに顔伏せちまって、寝てるふうしてたのよ。いいえ、そのひとひとりだったわ。だれもほかに乗っていなかったわ」  金田一耕助は魔術師だった。山川警部補や志村刑事のまえでは絶対にしゃべろうとしなかったことを、金田一耕助はいとも造作なくナツ子から引きだしてしまった。  この自動車はまもなく発見された。そしてこのことがこの事件にさらにショッキングな色彩を投げかけたのであった。      六  成城署の取り調べ室で待っていた江南産業の営業部長坂巻啓蔵というのは色の浅黒い好男子だ。グレーのズボンに黄色のポロシャツを着た体は、がっちりとひきしまって半そでのポロシャツの下からのぞいている腕は丸太ん棒のようにたくましい。年齢は三十五、六だろう。 「坂巻君」 「はあ」 「いったい中国のひとたちは相互扶助というか同胞愛というか、お国のひとたち同士密接に結合していて、それが中国人の成功の原因だときいてるんだが、江南産業では、社長以外の四人は全部日本人なのかね」 「はあ」 「それにはなにか理由でも……? それとも李氏というのは特別の日本人びいきなのかね」 「いや、それは……」  坂巻はちょっと|躊躇《ちゅうちょ》したのちに、 「じつはぼくじしんはじめはそれを不思議に思っていたんです。しかし、その後おやじさんをよくしってる中国人に話をきいて、だいたいその理由ものみこめたんですが」 「と、いうと?」 「李家というのは台北でも名門なんですね。戦後おやじさんこちらで産をなして、うまれ故郷で余生を送るつもりで台北へかえってたことがあるんですが、そこで病気が出た……」 「病気というと?」 「やきもちですね」 「やきもち……?」  等々力警部はちらっと金田一耕助に目くばせすると、デスクのうえから身を乗りだして、 「李氏はそんなにやきもちやきなのかね」 「どうもね。ほれた女にたいする嫉妬心というのが病的を通りこして、滑稽な場面さえわれわれはしばしば経験するんですが、これは昔っからそうだったらしいんですね」 「それでなにか事件を起こしたのかね、台北で」 「そうなんです。一九五三年といえば昭和二十八年ですね。おやじさん|糟《そう》|糠《こう》の妻をうしなって、二度目の若いお嫁さんをもってたんだそうです。むろん同じ中国人ですね。そのお嫁さんがほかに情夫をこさえたとかこさえなかったとかで、あやうく絞め殺しそうになったんだということです」 「なるほど」 「なにしろおやじさん嫉妬に目がくらんでつまらん幻想を抱きはじめると、際限がないという病気なんですね。だけどそんときは若いお嫁さんに情夫があったとかで、情状|酌量《しゃくりょう》のうえ執行猶予かなんかになったらしい。だけど、それまでにずいぶん金も使ったらしく、それにいろいろ取りざたされて、むこうにいづらくなったらしいんですね。それで三十年のはじめに、こんどはこちらへ骨を埋めるつもりでやってきて、いまの商売をはじめたんです。年齢ですか。五十二、三というとこじゃないですか。ぼくは三十一年からですから、ことしでちょうど五年目になります」 「こちらでだいぶん細君をかえたって?」 「はあ、ぼくがしってるだけでもこんどの奥さんで三人目になります」 「五年間に三人か。一年半にひとりの割合だな」  志村刑事があきれたようにつぶやいた。 「それというのがおやじさん、かわいそうに返らぬ夢を見てるんですよ」 「返らぬ夢って?」 「おやじさん戦前からながく日本にいるもんだから、昔の日本の女のよさ、それもわがままな亭主にとって都合のよいよさ、忍従の美徳というんですか、そういう美徳がいまでも日本の女にのこってるはずだというんです。つまり気の毒におやじさん、このせちがらい日本にユートピアを求めてやってきたわけですが、いまどきちょっとねえ。おやじさんたびたび苦汁をなめさせられながら、それでも夢を捨てきれないでいるんだから、気の毒といやあ気の毒みたいなもんです」 「こんどの奥さんは赤坂かどっかのナイトクラブにいたとか……?」 「赤坂の紅雀ってうちです。いっしょになるときぼくはそうとう反対したんですがね」 「じゃ、きみはまえからしってたのかね」 「しってるたって会ったのは一度か二度です。あのひととせんからしってたのはぼくより渡部君ですよ」 「渡部君というと?」 「渡部貞雄って外交をやってる男です。仕事の関係でキャバレーやナイトクラブへ出入りするようですが、去年の春、紅雀へおやじさんを連れてったところが、おやじさんすぐあのひとにほれちまったわけですね。いったいやきもちがひと一倍はげしいってことは、それだけ情熱家だってことじゃないですか」 「そりゃそうだろうね」 「だからほれるときもひと一倍激烈なんですね。ことにせんの奥さんと別れた直後でもありすっかりのぼせあがったわけです。ぼくは二度おやじさんに連れられていって会っただけの、ただそれだけの知りあいでした」 「それにもかかわらずいっしょになるのを反対したのは?」 「おやじさんがぼくを紅雀へ連れていったのは、いっしょになりたいと思う女がいるんだが、鑑定してくれんかというんでしょう。ぼくにも責任があります。ぼくが反対したのはあのひと個人の問題じゃなく、ああいう職業のひとに、おやじさんが理想としてる忍従の美徳ってやつを期待するの、どだい無理だと思ったもんですからね」 「朱実君はきみが反対したことをしってたかね」 「そりゃしってましたよ。おかげでさんざんでした。たまにぼくがこの家へきてもいい顔はしませんや。それに反して渡部君は……と、いうわけで、あっはっは、まあ、こんなことをいうと、サラリーマンのあさましさをさらけ出すようなもんですがね」 「ところで、どうだね。李氏は朱実君にたいしてやきもちやいてたってふうは?」 「そうそう、それについてぼくにスパイを頼んだことがありましたよ。二、三日休暇をくれてやるから、女房の動静をさぐってくれんかというんですが、ばかばかしいから断わりましたよ。そんな仕事なら渡部にやらせなさいってね」 「渡部はやったふうだったかね、スパイを」 「さあ、どうですかね。渡部は外交をやってるんで社にいないことが多いですからね」  暗にスパイをやっていたかもしれないという|口《こう》|吻《ふん》だった。  そのとき金田一耕助がはじめて口を出した。 「坂巻さん、紅雀という名はよくきくんですが、ナイトクラブとしてどのていどの店なんですか」 「そりゃ一流中の一流の店ですよ」 「朱実さんはそこの店でどれくらい? よくナンバーワンとかナンバーツーとかいうじゃありませんか」 「そうですね。ぼくも二度きゃいかなかったんでよくしりませんが、三本の指にゃ入ったんじゃありませんか。紅雀の朱実といやあああいう社会じゃ評判だったようです」 「そうするとそうとう収入もあり、引く手もあまただったわけですね」 「まあそうでしょうね」 「そういうひとがなんだって、こういっちゃ失礼だが、異邦人の、しかもうんと年齢のちがうこちらのご主人をえらんだんでしょうね」 「そりゃ、もちろん、金が目当てでしょう」 「しかし」  と、身を乗りだしたのは志村刑事だ。 「あの安普請じゃたいした金もなさそうじゃないか」 「刑事さん、あなたは中国人をよくご存じないから、そんなことをおっしゃるんです」 「と、いうと?」 「いや、日本人なら月収十万円なら十万円に達するとすぐ十万円の生活をするでしょう。門戸を張り、身辺を飾り、わがはいは月収十万円でございって|面《つら》するのがふつうですね。中国人はちがうんです。かれらはある目標を立てるとその目標に達するまでは低い生活に甘んじて平気なんです。南方の|華僑《かきょう》なんかでもきのうまで路傍で商いをやり、|乞《こ》|食《じき》みたいな生活をやってたのが、一夜あけると豪勢な店をかまえて世間をあっといわせるなんて話が珍しくないそうです。日本人みたいに小成に甘んじるところがない。そこがあのひとたちのえらさで、うちのおやじさんなんかも、持つものはごっそり持ってるって評判です。もっとも中国人の財産ばかりは警察の旦那がたがお調べになっても、ちょっとわからんしくみになってるそうですけれどね」  金田一耕助もなにかでそんなことを読んだことがあるが、志村刑事は半信半疑だったらしい。あのお寒い借家のたたずまいが刑事をして、釈然たらしめなかったらしい。 「それじゃ昨日のことをひとつ」  と、金田一耕助がことばをはさんで、 「李氏の関西旅行はまえから予定されてたんですか。お手伝いさんの話じゃ、奥さんにとっては寝耳に水だったようですが……」 「われわれにとっても寝耳に水だったんです。もっともまえから話はあったことはあったんですが、きのうとはだれも思ってなかったんです」 「それ、どういうご用件……?」 「これは商売上の用件ですから……でもさしつかえない範囲で申しあげますと、うちのおやじさん台北の失敗から、必要以上に同国人のあいだで世間をせまくしていたんですね。おやじさん親切で世話好きなひとです。しかも戦前から日本で顔を売ってる。こちらにゃおやじさんの世話になった中国人がたくさんいるわけで、なかにゃ大きな成功者もいるんです。関西の大物といわれる陳隆芳氏などもそのひとりで、まえからおやじさんのことを心配して、いろいろ話があったわけです。それをおやじさん妙に世間をせまくしていたんですが、こんどようやく踏みきって陳|公《こう》|司《し》と|提《てい》|携《けい》してやろうということになった。それについておやじさんがむこうへいって直接話しあう必要があったわけですね」 「なるほど、それが急に話が進展したというわけですな」  と、等々力警部があいづちをうって、 「しかし、それがきみたちにとって寝耳に水だったというのは?」 「さあ、それがよくわからないんですが……」  と、坂巻もまゆをひそめて、 「午前中はなにごともなかったんです。平常どおりオフィスで仕事をしてました。それが……。昼飯をすませてからどっかへ出かけましたね。どこへ出かけたのかそこまではしりません。かえってきたのは夕方の五時ごろでした。そのときです。急に神戸へ出張することになった。まにあったら銀河にするがそれに乗りおくれたら明星にすると、それだけいいおいてそそくさとかえっていったんです。例によって例のごとくあのおんぼろ自動車をころがしてね。しかし……」  と、坂巻がちょっと言いよどむのを見て、 「しかし……どうかしたのかね」  と、等々力警部がすかさず切りこんだ。 「いや、じつはこれけさわかったことですが、おやじさんゆうべ関西へたったことはたったそうですが、銀河にも明星にもまにあわなかったらしく、そのあとの金星でたっていったそうです」 「金星で……?」  一同ははっとしたように顔見あわせたが、山川警部補がいそいで旅行案内を取りだすと、ぱらぱらページをめくって、 「金星といやあ十時十分東京駅発の大阪行きですね」 「ええ、そう、おやじさんそれに乗って東京をたっていったそうですよ」  成城町で犯人があのオースチンを乗りすてたのが九時二十分か、あるいはそれ以前と見られている。たとえそれが九時二十分だったとしても十時十分の金星にはまにあったのではないか。電車ではだめだったとしても自動車を走らせれば……その時刻なら交通まひも解消しているはずなのだ。  等々力警部は急に緊張をました顔色で、 「李氏が十時十分の金星でたっていったというのはどうしてわかったんだね」 「それはこうです。あの、ちょっとたばこ吸ってもかまいませんか」 「さあ、どうぞ」 「じゃ、失礼します」  坂巻はピースを一本取りだすとガスライターをカチッと鳴らせて、うまそうにひと息たばこの煙を肺いっぱいに吸いこむと、 「ただし、この話、詳しいことは渡部君にきいてくださいよ。渡部貞雄……さっき話の出た外交をやってる男ですね。じつはけさ社へ出るとこの騒ぎでしょ。それでいったいおやじさんゆうべ神戸へたったのかななどといってると、渡部君がいいだしたんです。やっこさんゆうべ社長の命令で社へのこってたそうです。そしたら何時ごろだったか社長から電話がかかってきて、銀河にも明星にも乗りおくれた、十時十分の金星にするが、神戸へ持参する重要書類をオフィスに忘れてきたから、すぐ東京駅へ持参するようにっていってきたそうです。で、渡部君、書類をもって東京駅へ駆けつけたらやっとのことでまにあって、すでに動きだしていた金星の窓から、かろうじて書類を入れたケースを手渡したといってるんです」  山川警部補は旅行案内のページを指で繰りながら、 「金星ならけさの九時二十分大阪着の予定ですね」 「そうですか、じゃ、おやじさんたぶん電車か自動車で神戸へむかうつもりだったんでしょう。そうそう渡部は陳氏にあてて金星でたつむね打電しておくよう、おやじさんに頼まれてそのとおりしておいたそうですよ」 「よし、それじゃさっそくそのこと神戸へ照会してみよう。陳氏の住所は……?」 「陳氏の住所は……?」  坂巻はちょっと|唖《あ》|然《ぜん》とした顔をしたが、とつぜん満面に朱を走らせて、 「あなたがたまさかおやじさんを……?」 「陳氏の住所は……?」  山川警部補からかさねて返事をうながされて、坂巻はふしょうぶしょうポケットから手帳を取りだした。そして、事務所と自宅の住所をいった。事務所は海岸通りにあり、自宅は|西《にし》|灘《なだ》区だった。 「しかし、そんな……そりゃおやじさんはやきもちやきだけど……」 「いやね、坂巻君」  そばから金田一耕助がなだめるように、 「これがこのひとたちの|常套《じょうとう》手段なんです。べつに底意はないんですがね、いまにゆうべのあなたの行動についてきかせてほしいなんて、失礼なことをいいだしますよ。あっはっは」 「そうそう、それをここできかせておいてもらおうか。そうするとお互いに手間が省けるというもんだからね」  等々力警部にうながされて坂巻のほおにまた血の気がのぼった。怒りを露骨にあらわして一同の顔をにらんでいたが、やがてほろ苦い微笑をもらすと、 「とうとうぼくも飛ばっちりをうけるわけですか。いいですよ、申しあげますよ。だけどこれ新聞種にならないようにしてください。ぼくはいいけどむこうに悪いから」 「そりゃ心得てるが、それで……」 「いえさ、女の子といっしょだったんですが、あいてはいま売りだしざかりの子ですからね、ほら、ちかごろテレビから引きぬかれて、いま東京キネマで力こぶをいれてる水原ユカリ。ゆうべはあの子のうちにいたんです」  一同はおもわず顔を見あわせた。  水原ユカリといえば純情型でちかごろめきめき売りだしてきた新進スターである。そういえば以前はよくテレビに出ていたっけ。 「きみとはどういう関係だね」 「なあに、この三月霧ケ峰へスキーにいったところ偶然そこでいっしょになったんです。愚連隊みたいな連中に取りかこまれて困ってるところを助けてやったといえば、おきまりのメロドラマですが、それがきっかけでまあね。べつにそれ以上の関係はないんですよ。念のためにいっときますがね」 「君はゆうべ何時ごろから何時ごろまでそこにいたんだね」 「社を出ていきつけの家で飯を食ってですから、七時半ごろからでしょうね。ユカリゆうべSTVのビデオ撮りがあったんで、せりふのけいこをしてるのを手伝ってやりました。それから十一時ごろユカリの家を出て、自動車でSTVまで送ってやったんです」 「水原ユカリの住所は?」 「|経堂《きょうどう》です。経堂の|赤堤《あかづつみ》、番地は……」  と、番地をいって、 「細木さんといってもとM財閥の重役だったひとのうちの離れを借りてるんです」  志村刑事が番地と電話番号をひかえているところへ、三浦刑事が入ってきた。その足音のあわただしさと、緊張した顔色から一同ははっとあいてを見なおした。 「警部さん、ちょっと」 「三浦君、なにか……?」  三浦刑事はデスクをまわって等々力警部のそばへやってきた。 「ちょっとお耳を拝借」  三浦刑事の耳うちをきいているうちに、等々力警部の額から血管が二本まるで鬼の角のように怒張してきた。      七  昭和三十五年六月二十二日。  山口久子にとっておそらく|生涯《しょうがい》その日のことは忘れられないであろう。  その日の朝、久子はまず良人の裕吉を送りだした。裕吉は丸の内にある一流の商事会社へ勤めている。年齢はわかいが腕の立つ男で、ちかく課長に|抜《ばっ》|擢《てき》されるであろうという評判だ。  朝七時裕吉とともに門を出た久子は、へいの外に一台の自動車がとまっているのを見た。 「あら、あんなところに自動車がとまってるわ」 「どれどれ」  裕吉も自動車をほしいと思っている。自動車さえ手に入れば満員電車の難行苦行からすくわれるのにと思っている。 「わっ、こいつはすげえ!」 「まだ新しい車のようですわね」 「一九六〇年型のトヨペット・クラウンだ」 「テレビで宣伝してるあれね」  夫婦は新しい車をなでまわしながら、 「あなたこんなのがほしいんでしょう」 「冗談いっちゃいけねえ。こちとらにとっちゃこんなの|高《たか》|嶺《ね》の花だ。中古品でいいんだけどな、二十万円も出せば手に入るんだが……」 「いやねえ、うっふっふ」 「なにが……?」 「だって、あたし|山内一豊《やまのうちかずとよ》の妻じゃありませんのよ。さあ、二十万円お使いあそばせなんて芸当、あたしにはとてもできなくってよ」 「ちがいねえ。それにしてもだれがこんなとこへ車をおいてったのだ」 「どこかそこいらで用たししていらっしゃるんでしょ。あなた」  久子は気がついたように、 「ぐずぐずしてると出勤におくれてよ」 「おっと、ちがいねえ、じゃいってくる」  静かなお屋敷町の角をまがって裕吉のすがたが見えなくなるまで見おくったのち、久子が家のなかへ取ってかえすと、ひとり息子の裕が寝床のなかでぐずぐずいっていた。裕はことし七歳。小学校の一年生である。 「裕ちゃん、起きなちゃい。ぐずぐずしてると学校おくれてよ」 「パパは?」 「パパはとっくにお勤めよ。裕ちゃんもパパに負けないで元気に起っきするんでしょ。きょう学校なにがあるんでしょうね」  寝起きの悪いひとり息子をやっと学校へ送り出すと、いったん外へ出ていった裕が、すぐまた鉄砲玉みたいに引きかえしてきた。 「ママ、ママ」  玄関から呼ぶ声に、 「どうしたの、裕ちゃん、なにかわすれもの?」 「ママ、おうちのまえにすごい自動車とまってるよ。あれ、うちの自動車?」 「ああ、あれ? あれうちんじゃないの。よそのおじさまの自動車、ちょっとあそこへおかせてあげてるのよ」 「なーんだ。パパの自動車じゃないの?」 「ええ、パパんじゃないわ。だって、パパ、自動車なんか持ってないじゃないの」 「フーン」  裕はがっかりしたように、 「パパいつか自動車買うんだっていってたよ。すごい自動車買うんだって。だからお友達にいったんだよ。パパすごい自動車買うんだって。お友達まだかまだかっていうんだよ。ぼくのことうそつきだなんていうんだもん」 「まあ、パパったらそんなこといったの」  久子は当惑したようにまゆをひそめたが、すぐ明るい微笑を取りもどすと、 「そうよ、そのうちパパ自動車お買いになるわよ、きっと。だから裕ちゃん、そんなこと気にしないで早くいかなきゃ。学校におくれるわよ」 「うん、つまんないの」  裕が出ていってから三時間のち、戸口調査のおまわりさんがまわってきた。久子の一家はもう数年、この世田谷の|弦巻町《つるまきちょう》に住んでいるので佐川巡査とおなじみになっていた。 「おかわりありませんか」 「はあ、おかげさまで」 「ご家族三人でしたね」 「はあ、主人とあたしと子供の三人でございます」 「お子さんは男の子さんでしたね」 「はあ、やっと小学校の一年坊主なんですの」 「いや、おじゃまいたしました」  佐川巡査は思いだしたように、 「ときに奥さん、表にある自動車、おたくさんの車なんですか」 「とんでもない。あたしどもとっても自動車など持てる身分じゃございません」 「じゃ、あの自動車は?」 「さあ、どなたさまのでしょうか。けさ起きたときからあそこにございますの」 「ああ、そう。じゃ、これで」  佐川巡査は表へ出ると自動車のまわりを歩いてみたが、そのまま隣家の門をくぐった。ただ白ナンバーの末尾が一七であることだけが佐川巡査の印象にのこった。  午後一時ごろ久子は学校からかえってきた裕をつれて、ちかくまで買物に出かけた。買物からかえってくると例の車のまわりにひとだかりがしていた。 「あら、なにかあったんですの」 「ああ、奥さん」  佐川巡査がひとだかりのなかから出てきて、 「これ盗難届けの出てる自動車なんですよ」 「まあ!」 「きのうの午後築地へんでかっぱらわれた自動車なんだそうです。けさこちらへお伺いしたとき、なにげなくバックナンバーを見てかえったんですが、そしたら手配書がまわってきてたってわけで、念のためもういちどナンバーを確かめて本署へ連絡したわけです」 「いやだわ、あたし……どろぼうはなんだってこんなとこへ自動車おいてったんでしょうねえ」 「さあてね。ちかごろちんぴらどもが自動車をかっぱらって、さんざん乗りまわしたあげく手がまわらないうちに乗りすててく。そんなことがはやってるそうですが、まあ、そういうてあいの仕事でしょうな」 「ああ、あんたがこちらの奥さんかね」  自動車のなかで若い刑事にさしずして、指紋の検出をしていた年かさの刑事がおりてきて、久子のそばへやってきた。 「はあ、あたしここんちの主婦でございます」  久子はかたくなって頭をさげた。 「この自動車はいつごろからここに乗りすててあったかご存じないかね」 「はあ、けさ七時ごろ主人を送りだして外へ出たら、ここにおいてあったんですけれど」 「するとゆうべからあったわけですな」 「たぶんそうだと思います」 「ゆうべの何時ごろからここにあったかご存じじゃありませんか」 「さあ。そうそう、主人がゆうべかえってまいりましたのが七時半ごろでございました。そのとき表にこんな自動車がとまってたら、主人がなにかいったと思うんですが……」 「すると七時半以後ということになりますな。自動車のとまる音ききませんでしたか」 「いいえ、いっこうに」 「だって、ここはこんな静かなお屋敷町だから、表に自動車がとまればわかりそうなもんですがね」 「でも、主人がかえってまいりますとすぐお風呂でございましょう。お風呂から出るとちょうどナイターがはじまっておりましたので、それに熱中してしまって……それにナイターが終わるとすぐ寝てしまったもんですから……」  それがふつう一般のサラリーマンの生活なのだが、きょうに限って久子は悪いことをしたように頭をさげた。  あの恐ろしい事実が明るみへ出たのはその直後のことだった。あの若い刑事もまさかそこにあんな恐ろしいものがあろうとは思わなかったにちがいない。それをしっていたら久子に遠慮したことだろう。  久子はそのとき自動車の後部に立って、年かさの刑事と話をしていた。年かさの刑事の疑いぶかい質問に久子が弱っているのを、佐川巡査がなんとなく取りなしていた。そこへ自動車のなかから若い刑事がおりてきたのだ。 「須藤さん、このトランクのなかを調べてみましょうか」 「ああ、そう、やってみたまえ」  若い刑事はひと束の鍵をもっていた。それは自動車のなかから発見したのである。そのなかのひとつをトランクの鍵穴にさしこむとぴったり合ったらしかった。  世田谷署の松宮刑事がいきおいよく、トランクのふたをはねあげたとたん、久子はひとめでそのなかを見てしまったのである。  トランクのなかには若い男の死体が詰めこんであった。男は半そでのホンコンシャツを着ていた。あおむけに、ひざを立てるような格好でトランクの底に寝ていたので、久子には見まいとしても見えてしまった。半そでのホンコンシャツのまえが開いて、肉づきのよい胸が露出していたが、その胸のうえに短刀の柄が、まるで昆虫の標本をとめるピンででもあるかのように突っ立っていた。  血らしいものはほとんど見えなかった。そのかわり妙なものが柄と刀身とのあいだにはさまっていた。  トランプのカードのようであった。 「ママ、ママ!」  裕が母のスカートにしがみついた。幼い裕の身長をもってしても、トランクのなかはすぐ鼻先に見えたのである。 「あのおじさん、どうしたの。あのおじさんどうしてあんなとこに寝てるの」 「だめよ、だめよ、裕ちゃん、そんなもん見ちゃだめなのよう!」  久子は幼い裕の手をひきずるようにして門のなかへ駆けこんだ。  おそらく山口久子は生涯、あの肉づきのよい胸に突っ立っていた短刀の柄と、柄と刀身のあいだにはさまっていた、あのまがまがしいトランプのカードの印象を、ぬぐいさることはできないであろう。      八  等々力警部と金田一耕助が駆けつけたとき、死体はもちろんもよりの病院に収容されていた。しかし自動車はまだそこにおいてあり、松宮刑事がやじ馬を追っぱらうのに苦労していた。  そこにある自動車がトヨペット・クラウンであることを確かめると、ふたりはすぐに自動車の後部へまわった。車体番号の末尾は一七。きのう古川ナツ子が李泰順の家のちかくで見た自動車というのはこれではないか。 「この自動車盗難届けが出ていたんだって?」 「はっ、きのう築地署へ盗難届けが出ていたんです。その手配書がこちらへもまわってきていたのを、偶然のことからここにいる佐川君が発見したんです」 「それで盗難届け人は?」 「はっ」  松宮刑事はいそいで手帳を繰ってみて、 「築地二丁目にある興亜ビルに事務所をもつ佐伯孝という人物です。なんでもきのうの午後あっというまにやられたんだそうで。まもなくやってくることになってますが……」  築地二丁目の興亜ビルといえば、李泰順の江南産業がオフィスをもっているビルディングである。等々力警部は手帳を出してたしかめると、金田一耕助と顔見あわせた。 「それで、自動車発見のいきさつは?」 「はっ、それはかようで」  と、そばに控えていた佐川巡査がけさからのいきさつを手短かに語ってきかせた。  金田一耕助は無言のままこれらの話をきいていたが、やがて松宮刑事にむかって、 「そのとき自動車の状態はどうだったんですか。ドアやエンジンの鍵は……?」 「両方ともかかっていました」 「しかし……」  と、金田一耕助はドアのほうに目をやった。どこにも無理やりにこじあけられたような跡は見うけられなかったからである。  松宮刑事も気がついて、 「ああ、それ、それはこうなんです。われわれが駆けつけてきたとき、座席の左側の窓ガラスの上部が三センチほど開いていたんです。しかも窓からのぞくと座席のうえに鍵束が投げだしてあるじゃありませんか」 「鍵束が……? 座席のうえに……?」 「そうなんです。しかもおあつらえむきに窓が少し開いてたでしょう。それで針金で釣りざおをつくり鍵束を釣りあげ、おかげでドアをこわさずになかへ入ることができたんです」 「鍵束のなかにはトランクの鍵も……?」 「ええ、もちろんありました。だからトランクを開くこともできたんです。もちろんそのときはトランクのなかにあんなものがあろうとは、夢にも思ってませんでしたがね」  このことは金田一耕助と等々力警部の興味を強くひきつけずにはおかなかった。  犯人はエンジンにもドアにもまたトランクにも鍵をかけておきながら、なぜその鍵を自動車のなかへおいていったのだろう。忘れていったとはいわさない。犯人は自動車の外から鍵をかけたのだろうから。ガラス窓が三センチほど開いていたという。犯人は外から鍵をかけておいて、窓ガラスのすきまから鍵をなかへ投げいれたのだろうが、なぜそんなことをやったのか。いや、やらねばならなかったのか。  殺人事件で犯人が自分の罪を|隠《いん》|蔽《ぺい》しようという場合、もっとも苦心するのは死体のしまつだろう。だからこそこの事件の犯人も死体をトランクに詰めて、どこかへ運び去ろうとしていたのだ。ところがそこになにかの故障が起こって自動車を放棄しなければならなくなった。犯人は死体の発見をたとえ一分一秒でもおくらせるために、トランクの鍵は持ちさるべきではないか。それをわざわざ自動車のなかへ投げこんでいったとはどういうわけか。 「ときに松宮さん、この自動車エンジンがどっか故障してるんですか」 「いや、ところがエンジンはいたって快調だそうですよ。だから動かそうと思えばいつでも動かせるんですが、警部さんがいらっしゃるまでお待ちしてるようにとのことだったので、このままにしてあるんです」  ここにおいて金田一耕助は|唖《あ》|然《ぜん》として等々力警部と顔見あわせた。  エンジンが快調でしかも鍵をおっぽりだしていったということは、自動車をかってに盗めというのもおなじことである。あるいはそれが犯人の本意であったかもしれない。うっかり自動車をぬすんだやつは、とんでもないお荷物を背負いこむわけだから。ひょっとするとそのどろぼうが自動車を盗んだことをかくすため、ひそかに死体のしまつをしておいてくれるかもしれない。  しかし、それならば犯人は針金で|鉤《かぎ》をつくって釣りあげなければならないような場所に鍵束をおいとかずに、ドアの鍵穴に鍵をさしこんでおいたままにしておいたほうがよかったのではないか。いや、もっと簡単な方法はドアにもエンジンにも鍵をかけておかないことだ。  金田一耕助はなんだかキツネにつままれたような気持ちだった。 「この自動車いつごろからここにあるんだね」 「いまそれをききこみ中なんですがここの奥さんの話によると、少なくともゆうべの七時半ごろまではここになかったというんです。しかし、だれか見てるものがあるはずです。どういう人間がこれをここまで運転してきてここへ置いてったか、それは何時ごろのことだったか、なに、いまにききだしてみせますよ」  若い松宮刑事はこともなげだった。  金田一耕助は改めてあたりの町を見まわした。ここは成城の現場ほど寂しくはないがやはり落ちついた住宅街だ。見まわしたところ商家らしい家は一軒もなかった。こういう住宅街でしっかりとした目撃者をつかむのは容易なことではあるまいと、松宮刑事の意気ごみにもかかわらず金田一耕助は悲観的だった。  被害者の死体は所轄世田谷署のちかくの世田谷病院に収容されていた。金田一耕助はきょうはからずもふたつの病院の、ふたつの死体仮置き場に足を踏みいれたわけだが、どこの死体仮置き場も似たりよったりのものだった。 「やあ、警部さん、いらっしゃい。成城のほうにもおなじような事件があったそうですね」  純白のシーツにおおわれた死体のそばに待っていたのは世田谷署の捜査主任宮崎警部補と須藤刑事である。 「ああ、いま弦巻町の現場を見てきたがいろいろ共通点があるようだね。ときに紹介しとこう。こちら金田一耕助先生、おうわさはきいてると思うが……」 「それはもちろん、金田一先生、ようこそ」  しかしそのあいさつはそっけなく温かみに欠けていた。それもやむをえないことだろう。金田一耕助の真価はかれといっしょに仕事をしたものでないとわからない。 「警部さん、死体をごらんになりますか」  老練な須藤刑事は完全に金田一耕助の存在を、無視してかかろうとする尊大さだった。 「ああ、もちろん。検視は?」 「いますんだところです」  シーツの下に横たわっていたのはパンツ一枚の裸の死体だったが、金田一耕助はその若いのに驚かされた。  二十か、あるいはもっと若いのかもしれない。GI|刈《が》りにした顔のあどけなさは大学生よりも高校生の年輩である。よい体をしていた。肩幅も広く、胸も厚くて、乳首と乳首のあいだが広かった。パンツの下からのびている両の太ももが肉感的なまでにたくましい。  この少年の一命をうばった一撃が、朱実のそれとおなじだったのではないかと思われるのは、左の乳首の下に見られる傷口が朱実のそれと極似しているからである。長さ三センチばかりのみごとな一撃で、むろん傷口の血はきれいにぬぐわれていた。 「致命傷はむろんこれなんだろうね」 「はあ、詳しいことは解剖の結果を見なければわかりませんがね」 「犯行の時刻は?」 「ゆうべの八時か九時、あるいは十時ごろかもしれないと、青木先生はいってるんです」 「ところがね、警部さん、ここにちょっとおもしろいことがあるんですよ」  須藤刑事がにやにやと白い歯をむきだした。 「おもしろいことって」 「やっこさん、やってるんです、女と。その形跡が歴然とのこってるんです。あっはっは」  須藤刑事の野卑な笑い声をきいて、金田一耕助と等々力警部は思わず顔を見あわせた。 「そうすると、この子、女と寝たあとでぐさりとやられたってわけか」 「でしょうな。風呂へ入るひまもなかったくらいですからな。青木先生のいうのにそうとう酒をきこしめしてるんじゃないかって」 「そうすると、女とことをおこなったあと、酒を食らい酔って寝てるところをぐさりとやられたというわけか。それにしてもこの子いくつぐらいかな」 「ハイティーンというところじゃありませんか。ちかごろのハイティーンにゃ女をしってるのいくらでもいますからね」 「凶器は?」 「そうそう、警部さん、その凶器というのがおかしいんです。これどういう意味でしょうね」  宮崎警部補がかばんのなかから取り出したのはビニールにくるんだ短剣だったが、それに目をやったとき金田一耕助と等々力警部は、おもわず驚きの声を放たずにはいられなかった。  刀身の長さ三十センチ、幅三センチばかりの鋭い両刃の短剣なのだが、柄に彫られた模様からして中国製のものらしい。この短刀そのものにも金田一耕助は興味をひかれたが、さらにそれ以上に驚きの目を見はらずにいられなかったのは、刀身の根元にもののみごとに刺しつらぬかれているトランプのカードである。  ハートのジャックだ。 「こ、こりゃどうしたというんだね。こ、このトランプは?」  等々力警部は両手をしっかり握りしめて、思わず大きく口ごもった。 「どうもこうもありませんや。この|匕《あい》|首《くち》トランプごと被害者の心臓に突っ立ってたんでさあ。とんだ|判《はん》じもんですが、金田一先生、あんたこの謎をどう解きなさる」 「さあね」  須藤刑事に挑戦されて金田一耕助はことばを濁したが、その脳裏には歯をむきだした志村刑事の顔がありありと浮かんでいた。  志村刑事のいったとおりだ。短剣とハートのジャックがここに出現したが、それは志村刑事の予言したとおり、第二の死体とともに現われたのである。金田一耕助はこんどこそ志村刑事に脱帽しなければならないだろう。 「その謎は謎として、被害者の身もとは?」 「それがねえ、警部さん、いまんところ|皆《かい》|目《もく》わかっていないんですよ」 「所持品やなんかは?」 「所持品にもなんにもこの子が身につけてたもんといや、そのパンツのほかにそこにあるホンコンシャツとジーパン、靴と靴下、ただそれだけです」 「警部さん」  そばから須藤刑事も口をはさんで、 「その子の左の手首を見てください。腕時計の跡が残ってるでしょう。その腕時計もない。犯人はこの子の持ち物いっさいはぎとっていったんですよ」  等々力警部はそこにある白いホンコンシャツとジーパンを取りあげた。朱実のときとちがってホンコンシャツに傷も血も見られないのは、この被害者はじかに胸部をえぐられたからである。 「宮崎君、成城署に電話して、すぐだれかにハートのクイーンを届けさせるようにいってくれないか」 「ハートのクイーンですって?」 「いや、それはこういうわけなんだ」  等々力警部がかいつまんであちらの事件のいきさつを語ってきかせると、宮崎警部補と須藤刑事の興奮は大きかった。 「すると、警部さん、こりゃ一連の殺人事件ですね」 「ようがす。それじゃこちらの電話をかりて山川さんにかけてきましょう。ちきしょう、こりゃ大事件だな」 「あっ、ちょっと、須藤さん」  と、金田一耕助が呼びとめて、 「警部さん、ついでに古川ナツ子をつれてきてもらったらどうですか」 「ああ、そうそう、須藤君」  と、等々力警部がかんたんに古川ナツ子が目撃したトヨペットのいきさつを語ってきかせると、須藤刑事はますます興奮して、 「それじゃいよいよふたつの事件に関係があると思わなきゃいけませんね。ようがす。そのことも山川さんに話しておきます」  須藤刑事があたふたと電話をかけにいったあとで、等々力警部はしげしげと、被害者のあどけない顔を見まもりながら、 「宮崎君、犯人が被害者の持ち物いっさいをはぎとってったというのは物盗りが目的なのか、それとも被害者の身もとをくらまそうという算段なのか」 「そりゃあとのほうじゃないですか。どうせそんな小刀細工をやったところですぐわかりまさあ。わたしの勘じゃこの子、そうとう良家のせがれですぜ。良家にうまれて甘やかされて、まんまとぐれて不良になった。……金田一先生、あなた、どうお考えですか?」 「わたしもしごく同感ですね」  金田一耕助も即座に同意した。被害者のおぼっちゃんおぼっちゃんした顔を見れば、そう思わざるをえなかったのだ。  そこへ須藤刑事がかえってきた。 「電話かけてきました。山川さんすぐこっちへくるそうです。先生、だいぶん興奮してましたぜ。それから……そうそう、自動車の持ち主がいま署のほうへきてるそうですが」 「よし、それじゃひとまず署へかえろう」  世田谷署で待っていた佐伯孝氏は運転手の安井安吉をいっしょに連れてきていた。ふたりは問題の自動車を見せられると、すぐじぶんのものにちがいないと書類一式を出してみせた。そのあとで佐伯氏はつぎのごとく申したてている。  じぶんは対東南アジア貿易を営むもので、築地二丁目の興亜ビル三階にサエキ商事の事務所をもっているものである。  さて、この自動車はつい一か月ほどまえに購入したものである。以前にもっていた自動車が古くなったのでこの新車を買いかえたものであるが、その間の取りひきについて不正があったとは思えない。なんならよろしくお取り調べを乞う。さて、じぶんも運転ができることはできるが業務上、この安井安吉を抱えていて、運転はいつもこの男にまかせている。  さて、あの自動車が盗難にあったいきさつはこうである。きのう、すなわち六月二十一日の午後三時ごろじぶんは外出さきからあの自動車で興亜ビルへかえってきた。そのとき運転していたのはいうまでもなく安井安吉である。そのときじぶんはそうとうの荷物をもっていたので、安井安吉に命じて三階まで運ばせたのだが、それからあとのことは安井安吉から直接おききとりねがいたい。  佐伯孝氏の申したてのあとで安井安吉はつぎのごとく申しのべている。  そのときわたしは社長をおろすと車は駐車場のほうへまわすつもりでございました。ところが社長が荷物を三階まで運ぶようにおっしゃったので、つい、そのまんま、はい、自動車の鍵をエンジンの鍵穴にさしたまんまで……これはわたしにとっては|一《いち》|期《ご》の不覚で、まことに申しわけなく思っているしだいでございます。  さて、社長のお荷物を三階まで運んでまいりまして、もとのところへもどってまいりますまで三分、いや、せいぜい五分もかかりましたでしょうか、そのあいだに自動車が煙のように消えているではございませんか。いや、そのときの驚いたこと。  かねて自動車泥棒のことはきいており、たいていの場合ほんのちょっとしたすきをねらわれるときいておりましたのですが、わたしとしてははじめての経験、ほんのちょっとした油断から社長にまでご迷惑をかけ、まことに申しわけなく存じているしだいでございます。  またあいにくそのとき興亜ビルの玄関外には、人影とてもなく、したがって目撃者とてひとりもなく、犯人については皆目心当たりはございません。まことに申しわけないことでございますが、以上申しのべたところに絶対うそ偽りはございません。神かけて真実を申しあげたしだいでございます。  運転手安井安吉のあとについで佐伯孝氏がさらにことばを補足した。  いまおきき及びのとおりで安井より自動車盗難の報をきくと、じぶんはただちに社員に命じて築地署へ盗難届けを出すように命じておいた。さて、さきほどきくところによると盗難にあったじぶんの自動車が、なにかいまわしい事件に利用されたようであるが、じぶんは絶対に関係がない。自動車が盗難にあったのちのじぶんの行動はかくかくしかじかであるから、なんならよろしくご調査願いたい。安井安吉とても同様である。……  と、六月二十一日午後三時以後のふたりの行動を詳しく申しのべたが、それらはすべて調査の結果、真実であることが立証された。  さいごに佐伯氏は同じビルに事務所をもつ江南産業と李泰順氏についてきかれたが、それについてつぎのごとく答えている。  江南産業も李泰順氏の名前もしっている。しかし、じぶんの事務所が三階にあるのに反して、江南産業のそれは四階ときいている。したがって李氏ともエレベーターや階段の途中で会ったとき目礼をかわすていどで、親しく口をききあったこともない。また江南産業の社員も会ってみれば顔を見知っているかもしれぬが、いまのところ思いだす人物もない。  ただ、おなじビル内に事務所をもち、おなじ海外貿易に従事する同業者として、江南産業のうわさはきいたことがあるが、じぶんのきいた範囲では事業の内容は堅実のようで、いかがわしい風評はついぞきいたことはない。  以上が佐伯孝氏と安井安吉運転手の申したてのすべてであるが、そのあとでふたりは世田谷病院へ同行を求められ、被害者の死体を見せられたが、ふたりともいままでいちども会ったこともなければ見たこともない人物だときっぱり断言した。  これを要するに佐伯孝氏と運転手の安井安吉は、この事件においてはたんなる被害者にすぎなかったようである。犯人はかれからうばった自動車を利用して、この恐るべき二重殺人を決行したらしい。  こうしてふたりの名前はいちおう捜査当局の容疑者メモから|抹《まっ》|殺《さつ》されたのであった。  さて、佐伯氏と安井運転手のききとりが行なわれているあいだに、成城署から山川警部補と志村刑事が古川ナツ子をつれて駆けつけてきた。  ナツ子はひとめ問題の自動車を見ると、きのうちかくの竹やぶのかげで目撃したあの自動車にちがいないと証言した。彼女は車体番号の末尾の二桁をおぼえていたのみならず、車体についていたちょっとした傷もおぼえていたが、それが問題の自動車と一致するところから、彼女の証言の|信憑性《しんぴょうせい》が裏づけされた。 「しかし、警部さん、このハートのクイーンとジャックはどうしたんでしょう、これ」  山川警部補が重ねてみると二枚のカードはぴったり一致するのだ。いや、二枚のカードが一致するのみならずそこにある刺しつらぬいた跡までぴったり一致するのである。 「このカード、二枚こうして重ねておいて、ぐさりと刺しつらぬいたものにちがいないようですが、こりゃどういうわけでしょう」 「金田一先生、あなたこれをどうお考えになりますか。なにかおもしろいお考えでも?」  等々力警部はさっきから金田一耕助の顔色を読んでいたのだ。だしぬけに警部に指名されて金田一耕助はいささかてれた。宮崎警部補や須藤刑事の好奇的な視線を意識せずにはいられなかったのだ。 「ああ、いや、警部さん、そりゃこうじゃないでしょうかねえ」  金田一耕助は二枚のカードを取りあげると、 「ここにとても|嫉《しっ》|妬《と》ぶかい旦那さんがいるとする。その旦那さんはいつもじぶんの奥さんに、ほかに愛人があるんじゃないかという幻想に悩まされている。しかも、旦那さんは奥さんを熱愛してるから、まあ、いってみれば奥さんはハートのクイーンのごときもんです。それであるとき嫉妬に狂った旦那さんが、こういったとしたらどうでしょう。|汝《なんじ》、ハートのクイーンよ、汝にもしハートのジャックの如き若き愛人があるとするならば容赦は致さぬ、重ねておいて|真《ま》っ|斯《こ》の通りと、ぐさりと短剣でひとえぐり……」  一同はかたずをのんで金田一耕助の身振り手振りを見つめていた。だれもそれに反対するものはない。それ以外に二枚のカードの裂け目の一致を説明できそうもないからだ。一同はしばらくたがいに顔を見あわせていたが、だいぶんたってから志村刑事が挑戦してきた。 「しかし、金田一先生、この二枚のトランプはべつべつのところから発見されたんですぜ。そうすると、そのやきもちやきの旦那さん、いったんそうして奥さんをおどかしといて、しかりしこうしてのちにトランプをべつべつにわけて、またぞろ真っ斯の通りと、男と女をやったんですかい?」  須藤刑事は笑ったがほかのだれも笑わなかった。みな一心に金田一耕助の顔を見ていた。  金田一耕助は悩ましげな目をして、 「志村さん、そこんところはまだぼくにもわかりません。あなたがたのご解明を待つばかりです。しかし、山川さん」 「はあ」 「こういうことはいえるんじゃないでしょうか。あのトランプは被害者の心臓のうえにおかれて、そこを的に犯人がねらったんじゃなく、被害者が心臓をえぐられたとき、すでにその凶器にはトランプが刺しつらぬかれていたと……」 「金田一先生、恐れ入りました」  温厚な山川警部補は率直に頭をさげた。      九  昭和三十五年六月二十三日の朝刊は、どの新聞も社会面の大部分をこのふたつの事件で埋めていた。成城のほうの事件は二十二日の夕刊にかなり詳しく報道されたが、弦巻町の事件はまにあわなかった夕刊が多かった。それだけに二十三日の朝刊の社会面は、各紙ともこのたぶんに共通点をもつふたつの事件で埋めつくされたといってもいいだろう。  捜査本部ではこのふたつの事件を、相関連したものとの想定のもとに合同捜査本部を設けたが、事件発見の順序によってそれは成城署におかれることになった。  金田一耕助が|飄然《ひょうぜん》として捜査本部へ顔を出したのは、二十三日午後一時ごろのことだった。  その前日、かれはかろうじてサロン・ヴィーナスの個展にまにあった。さいわい二十号ほどの作品に気にいったのがあったので、それを契約することによって先輩への義理をはたすことができた。こうして金田一耕助のえがいた計画のさいしょのひとつは遂行されたが、あとのひとつ、いきあたりばったりの旅行のほうは残念ながら放棄のやむなきにいたったようだ。  金田一耕助が飄然として会議室へ入っていくと、捜査会議のまっさいちゅうだった。そこには十人あまりの係官がテーブルをかこんで、等々力警部の話に耳をかたむけていた。大部分は金田一耕助と顔見知りの間柄だったがなかにふたりほど未知の顔触れもまじっていた。みんな緊張と興奮の色を露骨に見せて、等々力警部の話を謹聴していた。  金田一耕助は無言のままかるく一礼すると、隅の席に腰をおろしたが、すぐはっと思ったのは、どうやら弦巻町の被害者の身もとがわれたらしいと気がついたからである。  世田谷署の須藤刑事はきのう、被害者の身もとはきっとじぶんの手で洗ってみせると豪語していたが、かくも簡単にわれたというのはかならずしも須藤刑事の手柄ではなかった。けさの新聞を見て被害者の母が、もしやと思って世田谷署へ出頭した結果であった。  被害者、名前は|園《その》|部《べ》隆治、年齢は満十七歳と六か月。T高校の三年生で去年までラグビー部に籍をおいていたが秋に除名されている。  父は丸の内に法律事務所をもつ民事弁護士、家庭は両親のほかに妹がひとり、中流以上の家庭でそだったおぼっちゃんである。 「お定まりの家庭教育の不行きとどきというやつだな」  等々力警部は暗然たる表情で、 「おやじさんはよくはやる弁護士、仕事にかまけて家庭をかえりみるひまがないどころか、浮気は男のかい|性《しょう》とばかりに愛人をこさえてる。おふくろさんはおふくろさんでこれが派手好き社交好き、ご亭主へのつらあてもあって、やれ、歌舞伎役者何村何十郎の後援会でそうろうの、やれ、何田何雄のモダンバレーの新作発表会でそうろうのと、家を外に出あるいている。これで子供にぐれるなといってもいうほうがむりだろうな」  金田一耕助は神妙に警部の述懐をきいていたが、何思ったのかぺこりと頭をさげると、 「いや、恐れ入りました。警部さん」  末席からだしぬけに声をかけたので、なみいる一同いっせいにそっちのほうへ振りかえった。 「えっ、恐れ入ったとおっしゃると?」 「だって、おふくろさんの出頭によって被害者の身もとがわれたのは、つい二時間ほどまえのことだとおっしゃいましたが」 「それで?」 「だって、そうじゃありませんか。たった二時間のあいだによくお調べになったもんだと感服申しあげたんです。おやじさんに愛人があるの、おふくろさんが歌舞伎役者の後援者でそうろうの、モダンバレーの……」  金田一耕助は|一《いっ》|気《き》|呵《か》|成《せい》にそこまでしゃべって、はたとばかりに口をつぐんだ。じぶんに注がれる一同の視線に一種異様なものをかんじたからだ。あるひとはあわれむがごとく、あるひとは|顰蹙《ひんしゅく》するがごとく、まじまじと金田一耕助のもじゃもじゃ頭を見つめている。  金田一耕助はしまったと思った。いわでものことをいったらしいと気がついた。髪の毛まで赤くなるほど赤面して、 「け、警部さん、な、なにか……」  と、心細そうにどもった。どもりながらもおずおずと一同のしかつめらしい顔を見まわしたのは、自業自得というべきだろう。 「えへん」  等々力警部はもったいらしくせきばらいした。  警部は金田一耕助がごひいきである。その金田一耕助をかくも赤面させたとあっては、じぶんの体面にもかかわるところと、警部はもう一度えへんとせきばらいをした。さて、大いに威厳をとりつくろって、 「それじゃ、金田一先生は園部隆治って名前をご存じなかったんですか」 「はあ、いっこうに。あの子、そんなに有名なんですか」  金田一耕助はまたしても失言したらしい。一同が失笑しそうになるのを警部が制して、 「ああ、そう、じゃここで紹介しときましょう。あそこにいるのが|高《たか》|輪《なわ》署の捜査主任加納警部補、そのとなりがおなじく辰野刑事」  ふたりが会釈するのに対して、金田一耕助もあわててぺこりと頭をさげたものの、高輪署の連中がなぜここにいるのかと、目をぱちくりさせている。 「金田一先生は」  と、等々力警部は一句一句に力を入れて、 「去年の秋『悪魔の|百唇譜《ひゃくしんふ》』というお題目で、ジャーナリズムを騒がせた事件があったのをご記憶じゃございませんか」  金田一耕助のまゆがとつぜんつりあがった。瞳がちかりと異様に光った。 「悪魔の百唇譜」——  もちろん覚えていた。当時新聞が連日のように書きたて、週刊誌という週刊誌が大きく取りあげた。それは戦後起こったもろもろのいまわしき事件のうち、もっともいまわしき事件のひとつであったろう。  そうだ、そういえばあの事件に高校生が関係していた。しかも、その名は園部隆治! 「そ、そ、それじゃ警部さん、こ、こんどの事件が去年の秋のあの人気歌手殺害事件と、なにか尾をひいてると……」 「人気歌手はどうですかねえ」  おだやかななかにも怒りをこめて訂正したのは、高輪署の捜査主任加納警部補だ。 「|都《つ》|築《づき》克彦は数年来ヒット曲が出なくって、世間から忘れられていた男ですからね」 「それが殺されてから『百唇譜』の収集家としてすっかり有名になりゃあがった」  露骨に怒りをぶちまけたのは辰野刑事だ。  そういえば——と、金田一耕助は思いだした。——殺害された都築克彦は芝白金台町にある高級アパートに住んでいた。つまり高輪署管内に起こった事件なのだ。しかも、事件は迷宮入りで、いまだに犯人は挙がっていない。……  金田一耕助はとつぜん異様な興奮にとりつかれた。五本の指で頭のうえの雀の巣をひっかきまわした。興奮したときのくせなのだ。  流行歌手都築克彦が芝白金台町にある高級アパートの自室で、何者にともしれず刺殺されたのは去年の秋のことだった。  殺害された当時のかれはいま加納警部補も指摘したとおり、ほとんど世間から忘れられた存在だった。  由来、流行歌手の生命は短いものとされているが、都築克彦ほど売りだしかたもめざましかったが、|凋落《ちょうらく》するのもあっけなかった男は珍しいといわれていた。文字どおりそれは線香花火のはかなさだった。ひとつはかれの声質がとっつきやすいかわりに飽きられやすいところにあったろうが、より重大な原因はかれの性行にあり、どこか識者の|顰蹙《ひんしゅく》をかうかれの性質のでたらめさと不潔さ、それがよりいっそうかれの凋落をはやめたのだろうといわれていた。  そのおなじでたらめさと不潔さが、死後におよんで都築克彦を|俄《が》|然《ぜん》著名なものにしてしまった。  殺害される以前の何年間かを、かれは|男淫売《おとこじごく》のような生活をしていたらしいといわれている。かれじしんはドン・ファンを気取っていたそうだが、じっさいは女から報酬をとって身をまかせ、肉体の切り売りをする|男淫売《おとこじごく》と少しも変わりのない生活をして、|恬《てん》として恥ずるところをしらなかったという。  いや、それのみならずこの男は、|男淫売《おとこじごく》としても非常に悪質だったそうだ。かれはじぶんの関係した女から、それを種にゆすっていたらしい形跡があるといわれている。  かれの死後、デスクの秘密のひきだしから妙な小冊子が発見された。題して、 「|百唇譜《ひゃくしんふ》」  あきらかに都築克彦の自筆であった。なかは|薄《うす》|葉《よう》|紙《し》の|綴《つづ》り込みで、その一葉ごとに女のくちびるのかたちが色鮮やかにしるされているのみならず。そこには|唇《しん》|紋《もん》をとったと思われる日、すなわちくちびるのぬしと交渉があったと思われる日づけが記してあり、女の頭文字まで記入してあった。それだけならまだいい。この|破《は》|廉《れん》|恥《ち》きわまる男はなおそのうえに、女のオルガンの特徴から技巧の|巧《こう》|拙《せつ》まで綿密詳細に記入していた。それはさすがものなれた係官でさえ、顔をあからめずにいられないほど、露骨でえげつない文章だったという。  ただ、唇紋をとられた女たちにとって救いとなったのは、そこに記入されたのが頭文字だけだったことである。  都築克彦を殺害した犯人はかれにゆすられていた女か、あるいはその女の関係者だったにちがいないと思われている。かれ、あるいは彼女は「百唇譜」のあることをしっていて探したのか、あるいはもっとほかのもの[#「ほかのもの」に傍点]を探したのか、都築の殺害された部屋はもののみごとに引っかきまわされていた。犯人は求めるほかのもの[#「ほかのもの」に傍点]を探しあてたかどうか。「百唇譜」以外にはこれといって、いかがわしいものは発見されなかった。  都築克彦の周辺にいた女たちが|大恐慌《だいきょうこう》をきたしたのはいうまでもない。ことに「百唇譜」に記入された頭文字とおなじ頭文字をもつ女たちの|周章狼狽《しゅうしょうろうばい》ぶりといったらなかった。なかには多くの人妻がいた。子をもつ母もあった。しかも、男の体を金で買って遊ぼうという女だから、いずれも富裕階級に属しており、それらの女がしめて三十六人。  しかも、事件の捜査が難航をきわめたであろうことは想像にかたくない。心がらとはいえ女たちの非行をいちいちあばきたてることは、人道上忍びがたいところであった。  そのうちに目に見えぬ圧迫と抵抗が捜査係官のうえに加えられはじめた。捜査に対する妨害やいやがらせがいたるところで捜査担当者のまえに立ちふさがった。むろん加納警部補をはじめとして高輪署の係官は、必死となって妨害やいやがらせとたたかった。  しかし、その結果は?  いまもって犯人はわからず、事件は迷宮入りをもってうわさされている。高輪署の連中のくやしさはいまさらいうまでもあるまい。 「あれはたしか去年の秋のまだ残暑のきびしいころのできごとでしたね」 「そうです、そうです。事件の発見されたのが九月二十四日の午後二時ごろ。したがって都築が白金会館の六階の自室のベッドで刺殺されたのは、その前日、すなわち二十三日の夜の十時ごろということになっています」  加納警部補が当時の調書を見ながら答えた。 「その死体をさいしょに発見したのが園部隆治君、すなわちこんどの事件の被害者でしたね。いや、それを失念していてさっきは失礼しましたが、それにしても園部と都築とどういう関係だったんですか。当時新聞で読んだ記憶によると、ただたんにファンだとか……」 「それがねえ、金田一先生」  と、加納警部補はまゆ根をくもらせ、 「われわれもはじめはそう思っていたんです。都築が人気絶頂のころ園部はまだ中学生だったんですが。そのころからの都築のファンだとばかり思っていたんです。ところがここにいる辰野君がだんだん調べていくと、ふたりの関係はただそれだけじゃなかったんですね」 「と、おっしゃると」 「男色関係があったらしいんですよ、ふたりのあいだに」 「男色関係……」  金田一耕助は思わず驚きの声を放った。  驚いたのは金田一耕助だけではない。成城署の山川警部補や志村三浦の両刑事、世田谷署の宮崎警部補や須藤刑事も、いちように驚きのまゆをふるわせた。  加納警部補もいまわしそうにまゆをふるわせて、 「このことは捜査上の秘密になっていたので、マスコミにもしれずにすんだんですが、園部はすっかり都築のおもちゃにされていたんですね。都築というやつが一種の性格破産者というよりは、『百唇譜』のことでもおわかりのとおり、悪魔的な性格の持ち主だったようです。そういう男のところへ出入りをはじめた園部は中学の二年生、セックスに関しては清浄|無《む》|垢《く》なおぼっちゃんであると同時に、それに対して猛烈な好奇心をもつ年ごろです。そういう少年にゆがんだセックスを教えこんだもんだから、かわいそうな少年はすっかり都築の自家薬籠中のものとなり、都築のおもちゃにされながら、都築に傾倒し、心酔し、その|愛《まな》|弟《で》|子《し》になっちまったわけです」  加納警部補が重い口を閉じるのを待って、辰野刑事が発言した。 「世田谷署のみなさんの話によると、園部は殺害される直前に性行為をもった形跡があるということですが、園部があの年で女をしっていたとしたら都築に指導されたんでしょう。都築を買って遊んだ女のなかにゃ、園部をおもちゃにしたものもいるらしいんです」  あまりいまわしい話に金田一耕助は背筋が寒くなるのを感じずにはいられなかった。  と同時にかれのまぶたに浮かぶのは、パンツの下からのぞいていた少年の肉感的なまでにたくましい両の太ももだった。  悪魔の弟子が|師匠《ししょう》の死後、みずから師匠の|衣《い》|鉢《はつ》をつがなかったとはだれがいえよう。そういえば朱実を脅迫していたらしい人物は、いつもソノジ[#「ソノジ」に傍点]と名のったというではないか。ソの字[#「ソの字」に傍点]すなわち園部隆治ではなかったか。 「それで、都築克彦殺害事件のさいの園部隆治の容疑は?」  山川警部補の質問に答えたのは辰野刑事だ。 「それがねえ、完全なアリバイがあったんです。それに都築の場合も殺害される直前に女と寝た形跡がはっきり認められるんですな。だから都築はあの晩かれの数多い情婦だかお得意さんだかしらんが、とにかく女のひとりといっしょに寝た。そして、ことを終わってうとうとしてるところを|殺《や》られたんだろうということになってるんですが、さて、その晩、芝の白金会館へ都築を訪ねてった女がだれか——それがいまだにわかっていないんです。いや、われわれの無能のいたすところで、はなはだ|汗《かん》|顔《がん》千万の至りなんですが……」  辰野刑事はくやしそうにくちびるをかんでいる。それに対してこんど質問の矢を放ったのは世田谷署の捜査主任、宮崎警部補である。 「園部が事件の発見者というのは、かれが都築の死体を発見したんでしたっけね」 「そういうこってす。九月二十四日の午後二時ごろ、園部が白金会館——ご存じですかどうですか、そうとう高級なアパートなんです。その白金会館の六階八号室の都築の部屋を訪れたところがドアに鍵がかかってなかった。なにげなくなかへ入ってみたら部屋のなかは大乱脈、だれかがなにかを探したらしく、いたるところ引っかきまわしてある。驚いて寝室をのぞいてみたらベッドのなかで都築が刺殺されていた。園部はそこですぐ|掃《そう》|除《じ》|夫《ふ》の藤野磯吉という男を呼んで警察へとどけさせたといってるんだが……」 「いってるんだが……? なにか……?」 「いや、だれもやつが白金会館へ入るところを見たもんがないんですな。だから死体を発見してすぐ藤野を呼んだかどうか、藤野を呼ぶまでに部屋のなかで、なんらかの操作をやらなかったか、園部が死んじまっちゃ、こいつは永遠の謎になりそうです」 「そうそう、その掃除夫で思いだしたんですが」  と、口をはさんだのは金田一耕助である。 「当時の新聞で読んだところじゃ、その藤野磯吉というのがそうとう黒いような印象をうけたんですが、あれはどういう理由で」 「いや、それはひとつはあの男の人柄によるんですな」 「人柄とおっしゃると?」 「藤野磯吉というその男、昔、満州で特務機関にいたやつなんですが、われわれを|屁《へ》とも思っちゃいませんや。そいつが尾羽打ち枯らしてアパートの掃除夫なんかになりさがってるもんだから、すっかり世をすねやあがって、いわゆる世間を白眼視してるというやつですな。いや、一筋縄でいかねえもんだから、つい……」 「しかし、なにか具体的な根拠があったんでしょう。その男に目星をおつけになったについちゃ……」 「それはそうです。そいつ都築にたのまれて、一週間に二回都築の部屋の掃除をやってたんですよ。あのアパートで多少なりとも都築と交渉をもってたのは藤野だけなんです。だからなにか……都築と関係のあった女についてしってやあしないかって責めたんですが、なかなかね、こちとらの歯にあうような|代《しろ》|物《もの》じゃありませんでしたね」 「その男、いまでも掃除夫を……?」 「やってます、われわれもすっかりあきらめたわけじゃなく、いまでもガンはつけてますがね」 「加納さん、都築克彦殺害事件の捜査本部は?」 「いちおう解散ということになってます。しかし、ここにいる辰野刑事などはなかなか解散に承服せず、いまだにこつこつやってるんです。それですからみなさん、こんど起こったこのふたつの事件が都築克彦殺害事件から尾をひいており、それからひいて去年の事件が解決されるとなると、このひともよほど|溜飲《りゅういん》がさがる思いがするだろうと思うんです。そのためにはわれわれとしてもいかなる協力も惜しまんつもりでありますから、諸君のほうでも応分のご協力をお願いしたいと思うのであります。金田一先生もどうぞ」  終わりのほうはいくらか演説口調になって、加納警部補はテーブルのうえに頭をさげた。      十 「ときに金田一先生」  一同の話の終わるのを待って等々力警部が発言した。 「はあ」 「ここに都築秘蔵の『百唇譜』があるんです。これをみんなで検討しようといってるところへあなたがやってこられたんです。ひょっとするとこのなかに、朱実の唇紋もあるんじゃないかといってるんです」 「そうそう、加納さん、当時新聞で読んだところでは『百唇譜』には三十六人の女の唇紋が収集されてるってことでしたが、三十六人の女の身もとは全部判明したんですか」 「それがなかなか。なにしろ事情が事情ですから女たちも口を割りません。さりとて強制的に唇紋をとるわけにもいかずというわけで、でも、辰野君やなんかの努力のおかげで半分以上はわかっております。わかってる分には×点をつけてありますが、困ったことに×点のある女にゃみんなたしかなアリバイがある。だから犯人がその『百唇譜』のなかにいるとすれば、×点のない女のなかにいるわけです」 「辰野さん、本郷朱実は?」 「気がつきませんでした。もしそのなかにいるとすれば、よほどうまく都築との関係をかくしていたんでしょうな」  辰野刑事は面目なさそうに頭をかいた。 「それじゃ、警部さん、拝見しましょうか」  それは収印帳くらいの大きさでルーズリーフになっており、唇紋を採ってから|綴《つづ》りこめるようになっていた。この「百唇譜」は成城署と世田谷署のひとたちはまだ見たことがなかったので、みな金田一耕助のそばに集まった。  最初の犠牲者はA・Kとなっており、中央に色鮮やかなくちびるの形が印せられている。日づけは一九五七・三・一五となっているから、都築は殺害される二年まえから「百唇譜」の収集に取りかかっていたらしい。  唇紋の左側にA・K女の年齢とオルガンの特徴、およびその技巧がことこまかに書きしるされているが、それは金田一耕助のようにおよそその方面から超越した人物をもってしても、顔をあからめずにいられないほど露骨でえげつなかった。 「こりゃ、主任さん、|玄《くろ》|人《うと》か玄人あがりですぜ。ずぶの|素《しろ》|人《うと》にゃこんなえげつないまねは……」 「そりゃどうかな。どうせ男を金で買って遊ぼうというご連中だ。いざとなったら恥も外聞もないんじゃないか。おっとこれにゃ×点がついてますね。辰野君、このA・Kてな素人ですか、玄人ですか」 「素人ですよ。れっきとした良家の奥さんですよ、子供が三人もあってね」  金田一耕助は一枚一枚、薄い和紙を繰っていったが、読むほどに、繰るほどに、金田一耕助のような人物でも体がボテッと熱くなってきたくらいだから、若い三浦刑事の息がはずんでくるのもむりはなかった。 「三浦君、きみみたいな若いもんには目の毒だ。いいかげんにのぞくのやめたらどうかな」  等々力警部がからかったが、三浦刑事はやめるどころか、ますますもって熱心である。 「あっと、警部さん、ここにA・Hというのがありますぜ」 「どれどれ。一九五七・五・一六——か。もしこれが本郷朱実とすれば、まだナイトクラブにいたころだな」 「警部さん、それはちとおかしいじゃありませんか」 「おかしいって、志村君、なにが?」 「ナイトクラブにいるような女が、金で男を買うというのはどうでしょうな」 「いや、そのお説はごもっともだが……」  と、そばから返事を引きとったのは辰野刑事。 「都築は|男淫売《おとこじごく》一本槍じゃなかった。|男淫売《おとこじごく》であると同時にドン・ファンでもあった。もっともかれのドン・ファンは女から金をまきあげるのが目的だったが、そうとうの|凄《すご》|腕《うで》であんな女がと思われるような|聡《そう》|明《めい》な女がやつのわなにかかってるんだ。これが本郷朱実だとすれば彼女もその手にひっかかったんじゃないかな」 「いや、これが本郷朱実かどうかはすぐわかるだろう。いま朱実の唇紋をとりにやってるところだから。金田一先生、ほかにもA・Hというのはありませんか」  もうひとりあった。しかし、このほうは年齢三十五歳、しかも、そうとうのでぶちゃんらしい。だからふたりのA・Hのどちらかが朱実だとしたらまえのほうだろう。  金田一耕助はそこへ紙テープをはさんで三浦刑事にわたすと、 「しかし、加納さん、これ、ちとおかしいとお思いになりませんか」 「と、おっしゃると?」 「三十六人の女たち、どうしてこうやすやすと唇紋をとられたんでしょう。これみんなじつに正確にとられてるじゃありませんか」 「そりゃ金田一先生、恋の記念にとかなんとかうまく持ちかけて……」 「いや、志村君、そればっかりじゃないんだ。唇紋をとられた女のなかにゃ、いつこんなもんとられたのか全然覚えのないのがそうとういるんだ。だから都築のやつ、怪しい薬かなんかを用いて犠牲者を眠らせてたんじゃないかって疑いがあるんです」 「犠牲者たちを眠らせて……? それからまだなにか……?」 「いや、それ以上のことは犠牲者たちもはばかって、多くは語らないんですが、こういう唇紋なんかも眠らされてるあいだにとられたものらしいんですね」 「加納さん」  世田谷署の須藤刑事が乗りだして、 「犠牲者を眠らせたとするとどんなことでもできるはずですね。唇紋くらいですめば軽いほうだ。ほかにもまだなにか……」 「いや、その疑いはたぶんにあるんだ。都築克彦という男、収入の道はどこにも持っていなかったんだ。それにもかかわらず白金会館という高級アパートにねぐらをかまえ、そうとう|豪《ごう》|奢《しゃ》な生活をやっていた。その収入はどこからきたか。『百唇譜』の女たちからしぼってたとしか思えないんだが、唇紋だけでそうもえげつなくゆすられるというのはねえ」 「それじゃほかにもっと露骨な証拠、たとえば写真のようなものが……?」 「そうなんだ、須藤君、そういうのっぴきならぬ証拠を握っていて、それを種にゆすってたとしか思えないんだが……」 「都築の死後、そういうものは発見されていないんですね」 「残念ながら金田一先生、発見されておりません。だからわれわれは都築を殺害した犯人がそれを奪い去り破棄したもんだとばかり思っていたが、こうしてまたふたつの殺人事件が起こってみると……山川君、きみの考えはどうかね」 「そうですねえ」  山川警部補はちょっと小首をかしげて、 「それにゃふたつの場合が考えられるんじゃないでしょうかねえ」 「ふたつの場合というと?」 「ひとつは都築にゆすられていた犠牲者のひとりが、あまりの脅迫にたえかねて都築を殺し、脅迫の種になっていた証拠類をごっそり持っていったまではよかったが、こんどはそれを種にほかの犠牲者たちを脅迫しはじめた……」 「山川さん」  金田一耕助がにこにこしながら、 「それはちとどうでしょうか。脅迫者にはひとつの特異な型があると思うんです。いままで|餌《え》|食《じき》にされていた小羊が一転して、狼のような脅迫者になろうとはね。もちろんあなたもそんなことは信じちゃいられないんでしょうが、で、もうひとつの場合は?」 「はあ、それはこうです。都築殺しの犯人はけっきょく証拠の品を発見することができなかった。それを発見したのは他の人間だった。そいつが都築の二の舞いをやりはじめた……」 「他の人間というと?」 「園部隆治はどうです。園部なら都築と交渉をもっていた女をしってたかもしれないし、『百唇譜』のほかに重要な証拠があることもしっていたかもしれない……」 「あの小僧が……? まだ十七やそこらのあの小僧っ子が……?」  須藤刑事ははなはだ懐疑的だった。 「いや、それはわからないよ、須藤君、都築と園部のあいだにさっきいったような関係があったとしたら、園部はそうとう都築の秘密に立ちいっていたにちがいない。また悪のテクニックも教わっていただろう。これはひとつきみのほうの担当として園部のさいきんの行状を洗ってみるんだね。辰野君」 「はあ」 「君も従来のいきがかりもあり、ひとつ須藤君に協力してやるんだね」 「承知しました」  ちょうどそこへ朱実の唇紋がとどいた。 「どれどれ」  等々力警部は三浦刑事の手から「百唇譜」を受けとると、A・H第一号のページをひらいて、いまとどいた朱実の唇紋と比較してみる。みんな等々力警部の周囲に集まった。 「金田一先生、あなたのお考えは?」 「わたしよりみなさんのお考えはどうです。わたしはたいへんよく似ているように……」 「金田一先生、いや、警部さん」  そばから志村刑事がひきとって、 「こりゃ断然おなじもんですぜ。ほら、くちびるのはしが少しそっくり返ってるとこなんかそっくりじゃありませんか」 「わたしもおなじように見えますな」  高輪署の辰野刑事は興奮に声をふるわせた。けっきょく、だれの意見もおんなじことだった。 「よし、みんなの意見は一致したと。正確なことは科学検査所へ一任するとして、じゃ、ひとつ朱実のオルガンの特徴と技巧なるものを朗読してみるぜ」  朱実のオルガンは精妙をきわめ、技巧は|剽悍《ひょうかん》そのもので、さすがのドン・ファン都築克彦も、そのつど骨抜きにされたと、かれはその手記のなかでぬけぬけと告白している。 「よし、これで朱実が都築の小羊のひとりだったとして、ではなぜ朱実が殺されたか、まただれが朱実を殺したか……」 「山川さん、あのオースチンはいつごろからあの場所に乗りすててあったか、正確な時間はまだわかっていませんか」 「金田一先生、それはぼくからお答えしましょう」  と、体を乗りだしたのは三浦刑事だ。 「あのオースチンの乗りすててあったすぐそばにK先生のお屋敷があるでしょう。そこへいってきいてみたんですが、だいたいつぎのことがわかりました」  と、ポケットから手帳を取りだして、 「K家に川田春雄という書生がいるんです。夜間大学へいってるんですがいまは中間試験で休みだそうです。あの晩じぶんの部屋で勉強してると急にネロ……シェパードがほえだした。時間をみると九時十七分だったそうです。まだ|宵《よい》の口ですし、そのうちネロも静かになったのでそのまま勉強してたところが、しばらくしてまたネロがほえだした。そこで川田は野球のバットをもって庭へ出てみたそうです。このへんちかごろ|宵《よい》|空《あき》がはやるんで、川田もそれだけ用心したんですね。そしたら垣根のそばに自動車がとまっていて、顔なじみの田村巡査がだれかと話をしていた。それで安心して部屋へかえって時計を見ると九時二十二、三分ごろだったというんです」 「そうすると、さいしょネロにほえられたのが犯人ということになりますか」 「そうです、そうです。そういえばさいしょネロがほえだす二、三分まえに、自動車のきしるような音をきいたといってますから、あのオースチンがあそこまできてエンコしたのは、九時十五分ごろということになりますね」 「金田一先生、そうすると時間的にも符合するわけです」  と、志村刑事がひきとって、 「犯人はあの家で朱実を殺した。朱実の殺害されたのが八時半として、ちょっとまごまごしてたらちょうどその時間になるわけでさあ」 「しかし……」 「金田一先生、なにか疑問の点でも……?」 「ぼくにはもうひとつ自動車の駐車してた場所とその方向が気になるんですがねえ」  金田一耕助はテーブルのうえのメモ用紙を引きよせるとそこに略図をかいて、 「これじゃ、自動車のむかってた方角がちがうような気がするんですが……」 ※[#ここに地図画像] 「そりゃなんでもありませんや、金田一先生、わたしどもだってそれくらいのこたあ考えましたよ。だけどこう考えたらどうです」  と、志村刑事は鉛筆をとって、金田一耕助の書いた略図のうえに点線を書きくわえた。 「つまり犯人はいったん大通りへ出たものの、そこをまっすぐ南下すれば大踏切へぶつかるわけです。大踏切にゃ踏切番がいる。そこで急に気をかえて無人踏切を通過するために方向をかえた、そこでエンジンに故障が起こったと考えりゃべつに不思議はねえわけだ」 「なるほど」  金田一耕助はうなずいたが、かならずしもその説に承服したわけではなさそうだった。  等々力警部はその顔色をうかがいながら、 「どちらにしても問題の自動車が九時十五分ごろからあそこに駐車していたとして、つまり犯人はその時刻にあそこから逃げ出したわけだな。ところで、宮崎君」 「はあ」 「弦巻町で発見された第二の自動車はいつごろからあそこに駐車していたんだね」 「それはわたしから申しあげましょう」  須藤刑事が引きとって、 「あの自動車のとまってたすぐまえのうちは山口裕吉といってしごくまじめなサラリーマンです。ところがその山口が勤めさきから帰宅したのが七時半、そのときにゃまだあの車はなかったそうです。山口はそれからすぐ入浴して、風呂からあがると茶の間で飯を食いながらナイターを見ていた。そして九時半にナイターが終わるとすぐ寝てしまったので、いつごろあそこへ自動車がきてとまったか、全然しらぬといってるんです。ところが、山口のまむかいに斉藤信吉といって新世帯の夫婦が住んでるんですが、その男が八時すぎに帰宅したときにゃ、あの自動車があそこにとまってたというんです」 「しかし、そりゃおかしいじゃないか。あの自動車のトランクから発見された園部の死体は、九時半から十時までのあいだに殺されたということになってるんじゃなかったかね」 「それなんです。警部さん、わたしもそんなばかなことがと思って斉藤って男にききかえしたんです。ところが斉藤がいうのに、絶対にまちがいない、げんにじぶんは山口さん自動車を手に入れたのかとうらやましかったので、そばへ寄ってたしかめてみた。またうちへかえって女房にもその話をしたというんです。それでおかみさんにきいてみたらやっぱりそうだっていうんです。主人がかえってきておむかいの山口さんとうとう自動車を手に入れたらしいって、うらやましがってたというんですね」 「しかも、それが八時前後のことだと……?」 「そうなんです。夫婦でそんな話をしながら茶の間のスイッチを入れたら、ちょうどナイターがはじまったところだといいますから、かっきり八時だったわけですね」  またむつかしくなってきた。一同はしばらく黙りこんで顔を見あわせていたが、その沈黙を破ったのは金田一耕助だ。 「われわれが現代の医学を信用するならば、園部隆治は殺されてからあそこへ運ばれてきて、トランク詰めにされたということになりますね」 「現代の医学もへちまもありませんよ」  須藤刑事は|激《げっ》|昂《こう》のおももちで、 「わたしゃいま病院へまわってきたんです。ちょうど解剖がおわったところで、詳しい報告書はあとで届くでしょうが、それによると園部隆治は多量のアルコール、たぶんウイスキーだろうといってますが、ウイスキーのほかに睡眠剤をのまされてるんです。だからあの子、女とことをおこなったのち睡眠剤入りのウイスキーをのまされて、昏睡してるところをぐさりとやられたんだろうというんですが、その時刻はやっぱり二十一日の夜の十時前後だろうと、ふたりの医者がきっぱり言明してるんですぜ」  また深刻な沈黙が一同のうえに落ちこんできたが、こんどそれを破ったのは志村刑事だ。 「いや、園部が殺されたのが十時ごろだという説にゃわたしゃ賛成だな。だって犯人は九時十分ごろ成城から車をおいてけぼりにして逃げだしたんだが、そのとき朱実の胸から凶器を抜きとっていってるんです。そのおなじ凶器で園部をやってんだから、園部が|殺《や》られた現場がどこだかまだわからねえが、そこへいくのに五十分かかった……と、こう思やあべつに不思議はねえどころか、かえってぴったりするんじゃありませんか」 「そうすると、よそで殺して死体をあそこへ運んできて、あのトランクへ押しこんでいったということなのかね」 「ま、そういうこってしょうねえ」 「そんなむちゃな!」 「むちゃだというが三浦君、それ以外に説明のしようがあるかい。あの車は八時ごろからあそこにとまっていたんだ。しかも、園部が殺られたのは十時ごろだと、権威あるお医者さんがふたりまで断言してらっしゃるんだぜ。きみ、現代の医学を信用しねえというのかい」 「まあ、まあ、それはあとでゆっくり考えるとして……」  と、等々力警部がわって入って、 「しかし、そうするとあのトランプはどういうことになるのかな」 「そりゃわかってるじゃありませんか。こいつは金田一先生のお説のとおり、やきもちやきの亭主が|真《ま》っ|斯《こ》の通りとばかりハートのクイーンを突き刺して、そいつでぐさりと朱実をえぐった。そうして朱実の死体をどこかへ……そうだ、園部のところへ持っていこうとしてたにちがいねえ。ところが途中で自動車がエンコしたもんだからそいつを捨てて、短剣だけを抜きとっていき、こんどは園部のまえで真っ斯の通りとハートのジャックを突き刺して、そいつでぐさりと園部をえぐった……」 「そうしておいてそのやきもちやきの旦那さんは、園部の死体を弦巻町まで持っていき、あのトランクのなかへ詰めたというのかね」 「そういうことになりますね。トランクの鍵は自動車のなかにあったんですからな」 「そりゃあね、志村君、町のまんなかで死体を詰めかえるってことがいかに危険なことだかってことは、まあ、夜のことだからと大目にみるとして、そうするとそのやきもちやきの旦那さんは、あそこにあの自動車がとまってたってことをしってたわけだな」 「そりゃそうです。あの自動車を盗んだなあ、やきもちやきのご亭主なんだから」  それは大胆な推断だった。しかし、だれもあえてそれに異議をさしはさもうとしなかったのは、みんなおなじことを考えていたのだろう。 「いや、そりゃねえ、警部さん、わたしの説にゃいろいろおかしなことがありまさあ。しかし、そこは金田一先生につじつまが合うように考えていただくとして、だいたいこんなもんじゃねえんでしょうかねえ」  金田一耕助は苦笑しながら、 「ところで、そのやきもちやきの旦那さんはその後どうなんです」 「ああ、そうそう、それを申しあげるのを忘れてました。李泰順はやっぱり金星でむこうへ着いてるそうです。それでいま本庁の新井君とこちらの江馬君が迎えにいってるんですが、けさ連絡があって第一なにわで大阪をたったそうです。第一なにわが東京へ着くのは午後五時。それまでにいろいろとまあ……」  ちょうどそこへ若い警官が入ってきて山川警部補の耳になにかささやいた。警部補はうなずいて、 「ああ、そう、いや、みなさん、うわさをすれば影とやらで、いま江南産業の渡部貞雄をつれてきたそうです。朱実を李に紹介し、ゆうべ李を東京駅まで送ってった男ですね。李にあうまえに、警部さん、金田一先生、ひとつ話をきいてみようじゃありませんか」      十一 「渡部さんですね。どうぞおかけください」  席を改めて取り調べ室である。山川警部補にいすを指さされても、 「は、はい……」  渡部はいまにも逃げだしそうな格好だ。 「どうぞこちらへ」  と、重ねて強く要請されて、渡部はやっとデスクのまえへきて腰をおろした。ハンカチを出して手の汗をぬぐっているのは、かならずしも八十を越える不快指数のせいばかりではなかったであろう。  外交をやっているだけあって身だしなみはさっぱりしている。この暑いのに|白《しろ》|麻《あさ》の上下を着こんで、純白のワイシャツに黒い|蝶《ちょう》ネクタイも小意気である。としは坂巻とおっつかっつだろうが体つきは正反対で、色白の|華《きゃ》|奢《しゃ》なタイプだ。度の強そうなふちなし眼鏡のおくで、出目金のような目がおどおどしている。 「渡部さん、あなたおとついの晩、李氏を送って東京駅まで出向かれたそうですね」 「いえ、あの送ってったってわけでも……」 「そうそう、李氏から電話があって書類かなんかを届けられたとか?」 「はあ」 「それ何時ごろのことでした? 李氏から電話があったのは……?」 「八時五十分ごろでした」 「まちがいありませんか」 「はあ、電話がすんでから時計を見たもんですから」 「李氏はどういってきたんですか」 「はあ、銀河にも明星にもまにあいそうになくなった。金星でたつつもりだが重要書類を忘れてきたことをいま思いだした。書類はかばんに入ってデスクの右上のひきだしにある。かばんごと金星にまにあうように東京駅へ届けてほしいと、だいたいそういう意味でした。そこでぼく時計を見たわけです」 「なるほど。だけどその電話どこからかけてきたんでしょう。社長それについてなにか?」 「いや、じつはわたしのほうからきいたんです。いまどこにいるのかって。それについて社長はなにもいいませんでしたが……」 「いいませんでしたが、なにか……?」 「はあ、そのとき電話に入ってきた雑音やなんかで、そうとう雑踏する場所の赤電話じゃなかったかって気がするんですが……」 「なるほど、それで君は書類入りのかばんをもって駆けつけたんですね。そのとき社長は?」 「プラットフォームで待っていました。そういう約束だったんです。ぼく発車十分ほどまえにいったんですが、ついでのことですからお見おくりしたんです。そうそう、そのとき金星でたったということを神戸へ電報しとくようにとの命令があったので、かえりに打電しておきました」 「そのとき社長のようすになにか変わったところはなかったかね」 「さあ、べつに……」  渡部ははっとしたように顔をあげると、等々力警部と金田一耕助、志村刑事の顔を順繰りに見まわしていたが、 「そりゃ、いくらか気むずかしいふうで口数も少なく、プラットフォームをあちこち歩きまわってましたが、ぼくとしちゃ大事な取りひきをまえにしてのことですから、そのことに心を奪われてるんだろうくらいに思ってたんです」 「なにかに心を奪われてるふうだったんですね」  金田一耕助がそばから念を押した。 「はあ、ひどく考えこんでるふうでした。ですからぼくも黙ってひかえていたんです」 「なぜ明星に乗りおくれたかいわなかったかね」 「それはぼくからきいたんですが、ただじろっとぼくの顔を見たきりでなにもいいませんでした。とにかくぼくが着いてから発車までの十分間、ただありがとう、それから電報のこと、発車まぎわにじゃいってくると、たった三度しか口をききませんでしたね」  渡部がここで無言のうちに力説しているのは、なにかひどく考えこんでいるふうだったが、殺人という重罪を犯してきたひととは思えなかったということなのだろう。 「ときに渡部君、社長のこんどの大阪いきはやぶから棒だったというじゃないか」 「いや、まえからそんな話があったことはあったんです。しかし、それがおとついだろうとは、あの日の夕方までしらなかったんです」 「なにがそんなに急に社長にその決心をさせたと思うかね」 「さあ、それは……社長には社長のお考えがあってのことでしょうからね」 「それにしても重要書類を忘れてくというのはおかしいとは思わないかね」 「はあ、それ、それは、ま、そうですが」  と、上目使いに警部を見ながら、 「しかし、それはどういう意味で?」 「いやね、わざと書類を忘れてって、だれかに東京駅へ届けさせる。それによって明星でたったということを証明させようという計画だったとは思えないかい?」  渡部は唖然と警部の顔を見まもりながら、 「しかし、社長は明星ではなく金星で……」 「だから、そこになにか計画に|齟《そ》|齬《ご》をきたしたと……」  渡部はまた上目使いに警部を見ながら、 「ぼく、まさか、そこまで邪推しませんでした。でも、そういわれてみれば……」 「そんな気もするというんだね」 「はあ」 「しかし、社長がそんな術策をめぐらせたとしたらなぜだろう。社長はなんだってそんな小刀細工をやったんだ」 「それはあなたがたのほうがよくご存じじゃありませんか。坂巻さんがきのうここへきて、いろいろいってったと思うんですが……」 「そうそう、そういえば社長に奥さんを紹介したのはきみだっていうじゃないか」 「そりゃそうにちがいありませんが、そこになにか下心があったように思われると困るんです。ありようをいうとこうなんです」  渡部もすっかり落ちついてきたのか、ポケットからたばこを出してマッチをすると、 「ぼく外交やってるもんですからよくお得意さんの接待を仰せつかることがあるんです。いや、それがぼくの仕事みたいなもんで、そんな場合よく紅雀を使うんです。いまも使ってます。ところがその紅雀のホステスやってたのがあのひとで、あるとき……去年の春ですが、どうしても社長に顔を出してもらわねばならんことになった。社長は元来そういう席へ顔を出すのは好かんほうですが、そのときはそうとう大きな取りひきだったもんですから、ぼくの顔を立てて出席したんです。そのときあのひとに会ったんですが、ちょうどまえの奥さんに別れて寂しかったらしく、ひとめぼれしちまったんですね。それから半年あまりせっせとじぶんひとりで通いはじめたと思ったら、いっしょになるといいだした。そのときは正直いってぼくもそうとう驚いたんです」 「あのひと紅雀ではそうとうの顔だったんだろう」 「はあ、一、二を争うというところでしたね」 「そういう女がよりによってそうとう年齢のちがう、しかも異邦人といっしょになろうというには、なにかわけがあったと思うんだが、それについてなにかしってやしないか」 「とんでもない。ぼくとあのひととはただたんに客とホステス、ただそれだけの関係だったんです。なにかわけがあったとしても、ぼくがしってるはずがないじゃありませんか」 「だけどきみは社長にたのまれて、奥さんのスパイをやってたってえじゃないか」  色白の渡部の顔にぱっと血の色が走った。憤然とした調子で、 「坂巻さんが、そ、そんなことまでいったんですか。そ、それじゃじぶんのことなんていってました」 「じぶんのことってえと?」 「じゃ、じぶんのこたあかくしてたんですね。ひどいなあ、じぶんのことは|棚《たな》にあげて。あのひとこそ奥さんのスパイをやってたらしいんですよ」  金田一耕助と等々力警部、山川警部補の三人はおもわずはっと顔見あわせた。渡部じしんもはっとしたらしい。おもわず口がすべったことを後悔しているにちがいない。たばこをもつ手がわなわなふるえていた。  等々力警部は鋭くあいてを見すえて、 「それはどういうことだね。坂巻がスパイをやってたってこときみはどうしてしってるんだ」 「はあ、あの、それが……」 「いいからいってしまいたまえ。坂巻はどういうふうに奥さんをスパイしていたんだ。それをまたどうしてきみがしってるんだ」  警部にたたみかけられて渡部も観念したらしい。たばこを灰皿のなかにねじこむと、ハンカチを出して顔の汗をぬぐいながら、軽薄そうなうすら笑いをうかべて、 「つい口がすべっちゃいました。問うに落ちず語るに落ちるってのはこのことかな。ぼくはときどきこれでしくじるんでさあ」  自嘲するように笑ったが、すぐ真顔になって、 「そりゃこういうことなんです。四月の中旬のことでした。社長さんから奥さんのスパイをたのまれたのは。毎月二十二日があそこの女中さんの公休日なんですが、その日奥さんがこっそり家をあけるらしいが、どこへいくのか突きとめてもらえないかって」 「なるほど、それで?」 「ぼく、そんなまね、いやだから断わろうとしたんです。そしたら社長がいうのにいやならいい、そのかわり坂巻にでも頼んでみようと。そういわれるとこっちは弱いです。坂巻さんとはまあいろいろとね。あのひと社長が奥さんと結婚するのを反対したことがあるもんだから、なんとなく立ち場が悪いんです。その形勢|挽《ばん》|回《かい》にやっきとなってるってこと、ぼくにもわかるもんだからつい引きうけちゃった」 「で、成功したのかね、それ?」 「ところが、第一回はまんまと失敗」  と、渡部は苦笑しながら、 「なんしろ奥さん成城の家を出て大通りへ出ると、ちょうどそこへ空のタクシーがきたんですが、それに乗ってあっというまにいっちまった。あのへん空タクシーが通ることめったにありませんからまんまと失敗」 「それが四月の二十二日なんだね」 「はあ、午後二時ごろでした。金曜日でしたよ」 「それが第一回目なんだね。それから……?」 「はあ、社長に大目玉くらったもんだから、こんどはしくじらないようにと、先月の二十二日、この日は日曜日だったんですが、社長は口実をもうけて家をあけたんですね。こんどはしくじらねえようにって、自動車を半日借りきって、社長の裏側の近所に竹やぶがあるんです。そこだと表から出ても裏から出ても駅のほうへむかえば見とおせるわけです。奥さん出てきましたね、二時ごろ」 「またタクシーをつかまえたのかね」 「はあ、ただし十分以上待ってましたね。そんなことはしなくとも駅のちかくにゃハイヤーがあるはずなんですが、それは使いたくないらしいんですね」 「こんどはうまく尾行したんだね」 「はあ、十中八九うまくいったんですが、さいごの|土《ど》|壇《たん》|場《ば》でしくじりました」 「と、いうと?」 「あれで十五分くらい走りましたかね。とつぜんまえの自動車がとまって奥さんが降りるのが見えたんです。で、ぼくそこが目的地だろうと思ったもんだから、わざと五十メートルほどいき過ぎて車をおり、もとのところへ引っかえしてきたら、奥さんの姿はもう影も形も見えなかった……」 「それ、どのへんだったんだい、奥さんを見失ったのは」 「どこだとお思いになります?」 「どこ?」 「弦巻町」  金田一耕助と等々力警部ははっと顔を見あわせた。ふたりとも思わずふとい溜め息をはいた。山川警部補がにわかに体を乗りだして、 「渡部君、きみ、少年の死体をトランク詰めにした自動車が、きのう弦巻町で発見されたのしってるね」 「ええ、そりゃ新聞にのってましたから」 「あの場所もしってるか」 「新聞に地図がのってましたからね」 「で、どのへんだい? きみが自動車を降りたのは?」  山川警部補はいそいでそこへ世田谷区の地図をひろげた。興奮のため指がいくらかふるえている。渡部は地図をのぞきこんで、指で弦巻町のへんを追っていたが、 「死体詰めの自動車がとまってたのはこのへんでしたね」 「そうだ、弦巻町三丁目だ」 「ぼくが自動車を降りたのはこのへんなんです。一丁目でした。ですから成城のほうからいくと、こんど自動車が発見された場所より少しむこうになりますね」  金田一耕助と等々力警部はふたたび顔を見あわせた。弦巻町は一丁目から三丁目までしかないが、そのへんになにかあるに違いない。 「きみはほんとに奥さんを見失ったのかい」 「それはほんとうです。ぼく少し用心をしすぎたんです。あのへんは静かな住宅街ですから、おたがいに見つかりやすいと思ったんです。それで少し自動車をむこうへやりすぎたらしく、奥さんが降りたところへ引っかえしてきたら、もうどこにも姿が見えなかったんです。そのかわり……」 「そのかわり……?」 「意外なひとを見つけました」 「意外なひととは?」 「坂巻さんです」  またしても三人はあっとあいての顔を見直した。渡部も顔を硬直させている。等々力警部はぐっと体を乗りだして、 「すると坂巻も奥さんを尾行していたと……?」 「いや、それはそうじゃないと思います。ぼく自動車で尾行の途中ほかにもだれかつけてやあしないかと、しじゅう気をつけていたんです。ほかにも尾行の車があったら気がついたはずです。坂巻さんはあらかじめあのへんで、網を張ってたんだと思うんです」 「すると坂巻はあのへんに奥さんのなにかがあるということを、あらかじめしってたにちがいないというのかね」 「そういうことになりますね」 「で、きみはどうした。その坂巻を?」 「さいわい坂巻さんはぼくに気がつかなかったんです。ちょうどうまいぐあいにチンドン屋がやってきてぞろぞろ女子供がついてきたもんですから、ぼくすばやくそのなかへまぎれこみました。それにこちらレーンコートやサングラスで、ちょっとした変装をしてましたからね」 「坂巻はどうだったんだい?」 「あのひとはふだんのままでした。ぼくより役者が一枚うわてですね。奥さんに会ったらやあ、どちらへなんてやるつもりじゃなかったんでしょうかね」 「坂巻は奥さんを見つけたふうかね」 「あのひとたしかに奥さんの姿を見かけたんだと思います。ちらと見かけて見失ったんじゃないでしょうかねえ。しばらくきょろきょろそのへんを探してましたが、まもなくあきらめたのか待たせてあった自動車で引きあげたんです。それでぼくもあのひとにだめならおれなんかとてもだめだろうと、すごすごと引きあげたんです。ただそれだけのことですが、坂巻さんが偶然あのへんを通りかかったとは、とても思えませんからねえ」 「きみ、そのことを社長に話したかい?」 「いいえ、奥さんを弦巻町で見うしなったということは報告しましたが、坂巻さんのことには触れませんでした」 「なぜ?」 「なぜですかねえ?」  渡部は卑屈なうすら笑いをうかべると、 「あのひとに出しぬかれてると社長に思われるのがくやしかったんです。じぶんで奥さんの行先を突きとめるまでは、社長にも坂巻さんにもそのことはしられまいと思ったんです」  それから渡部は盗まれた佐伯孝氏の自動車のことについて質問されたが、かれはけさ新聞で読むまではぜんぜんしらなかったと答えた。しかし、弦巻町で発見された問題の自動車がおなじビルの住人から盗まれた車だったということは、そうとう渡部に深刻なショックをあたえていたらしいことはたしかだった。  ついでにトランプのカードについて質問されたが、それについては渡部もぜんぜん心当たりがないらしかった。むしろふたつの殺人事件のどちらにも、トランプのカードがつきまとっているということに、かれはおさえがたい好奇心をもっているらしかった。  やきもちやきの旦那さんが真っ斯の通りと、まずトランプを突き刺してみせたんだろうというような空想力は、渡部貞雄になかったらしいのである。      十二  問題のひと李泰順氏が新井、江馬の両刑事に付きそわれて、成城署の合同捜査本部に出頭したのは、昭和三十五年六月二十三日午後七時ごろのことだった。  かれはいったん成城の自宅にかえって夕食をしたため、改めて捜査本部へ顔を出したのである。  これは余談になるが李泰順氏が東京駅へ着いたときは、ちょっとした|凱《がい》|旋《せん》将軍なみの歓迎ぶりだったらしい。  なにしろ事件はふたつである。しかも、ふたつの事件がふたつとも、死体が自動車のトランクのなかから発見されたということが、異常なセンセーションを巻きおこしていた。そのふたつの事件の中心人物と見られている李泰順氏の東京帰着とあっては、わっとばかりにやじ馬が押しよせたのもむりはない。あまり感情をおもてに現わさない中国人の李泰順氏も、そのときばかりは多少逆上気味だったという。  しかし、新井、江馬の両刑事に付きそわれて、成城署の捜査本部へ出頭したときの李泰順氏は、平常の落ちつきを取りもどしていた。  年齢は五十二、三だろう。|短《たん》|躯《く》ながらゆたかな肉づきは血色がよく、態度もゆったりとしていた。しかし、さすがにいくらかはげあがった額には沈痛の色が濃かった。いったん自宅へ立ちよったとはいうものの、服装は旅装のままで、薄クリーム色の麻の上下に蝶ネクタイも身だしなみよく、万事にこざっぱりと清潔で、大様な印象をひとにあたえる。  このひとが他人の口にのぼるほどのやきもちやきなのかと思うと、ひとは見かけによらぬものと、金田一耕助は内心気の毒に思わざるをえなかった。 「やあ、どうもご苦労さまです。さぞお驚きになったことでしょう」  まず口をきったのは等々力警部である。  あいてが異邦人であるだけに、このききとりは慎重かつ|慇《いん》|懃《ぎん》をきわめていた。席に成城署をはじめとして、世田谷、高輪の関係両署の捜査主任も顔をそろえていて、異様にものものしい|雰《ふん》|囲《い》|気《き》だった。 「ああ、いや、じつは……」  と、李泰順氏は落ちついた目でひとりひとりを見まわしながら、 「きのうむこうの夕刊で読んですっかり驚いてしまいまして……さっそくゆうべの夜行でかえろうかと思ったんですが、こちらからお迎えがあるという連絡があったもんですから、お待ちしていたしだいです」  李泰順氏の日本語はかれの国籍をしらなければ、ほんとの日本人かと思われるくらい板についていた。少しアクセントに癖があるようだが、それも気にならないていどである。少なくともズーズー弁の田村巡査よりはるかに日本人らしかった。 「いや、まことにお気の毒でした」  と、等々力警部はかるく頭をさげ、 「奥さんのおなきがらはいちおう解剖に付させていただきました。いま病院にありますがあなたがご帰宅なすった以上、さっそくお宅へお返しすることにいたしましょう」 「いや、事件のいきさつはいまも申しあげたとおり新聞でも読み、だいたいのことはみちみち刑事さんからもおききしましたが、死因はやはり心臓のひと突きということで」 「はあ、解剖の結果それ以外には異状がみとめられないことがはっきりしたものですから……時刻は二十一日の夜の八時から八時半ごろのことではないかということになっております」 「犯人は朱実の死体をかくそうとしたとか……?」 「そうなんです。そこんところがうなずけないんですが……それはそうと失礼ですが、奥さんとは正式にご結婚を……?」 「いや、それがまだなんです。朱実にゃやいやいいわれてたんですが、まえに二度|懲《こ》りておるもんですから、もう少しようすを見ようということになっていたんです」 「そうそう、こんどの奥さんで三人目でいらっしゃるそうですが、まえのおふたりは正式にご結婚でしたか」 「はあ、それがふたりとも正式にしたとたん浮気をはじめましてね。さんざん手を焼かされたあげくのはてには、いざ離婚するとなるとやれ|慰藉料《いしゃりょう》だの、やれ離婚手当てだのと、いろいろふんだくられたもんですから、朱実の場合もう少しようすを見ようということになっていたんです。ですからまだ正式にはなっておりませんでした」 「すると、こんどの奥さんにもなにか疑わしいふしでも……?」 「いや、あれも利口な女ですからね、なかなかしっぽは見せませんでしたが、なにかあったことはたしかなようですね。だれか若い男があって入れあげていたんじゃないかと思う」 「若い男とおっしゃると……?」 「いや、それより弦巻町のほうで発見されたもうひとつの死体ですね。たしか園部隆治とかいう少年ですが、あの子と朱実となにか関係でもあったという疑いでも……?」  ぬけぬけとぬかしたりといいたいのを等々力警部は色にも見せず、鋭くあいての顔色を読みながら、 「いや、それはまだ調査中でこちらにはまだなにもわかっていないんです。むしろあなたにおたずねすればなにかわかるんじゃないかと思っていたんですが、あなた園部隆治という少年をご存じじゃなかったですか」 「いいえ、ぜんぜん」 「名前をおききになったこともございませんか。園部という……」 「いいえ、それも新聞で読んだのがはじめてです」 「それじゃ、ソノジというのは? ソノジと名のる男がひそかに電話で奥さんと連絡してたらしい形跡があるんですが……」 「だれがそんなことをいってるんですか」  等々力警部はちょっと|躊躇《ちゅうちょ》したのちに、 「いや、お宅のお手伝いさんの古川ナツ子という娘の話なんですがね」  そのとたん李泰順氏のほおにさっと血の気がのぼった。怒りか、屈辱か、一瞬かれの表情をけわしいものにしたが、すぐあきらめたような平静にもどると、 「そうですか、それじゃあの娘もおなじ穴のむじなだったんですか。わたしはずいぶんあの娘にはよくしてやったつもりですが、やはり日本人は日本人同士、血には勝てなかったというわけですかな」 「ああ、いや、そりゃそういうわけじゃなく、あの娘としては無用の摩擦は避けたい一心で、あなたを刺激するようなことをお耳に入れるのを控えていたんだそうです」 「そりゃどうですかな」 「いや、それはそれとして、ソノジの名前もご存じなかったとすると、ほかになにか奥さんにかくし男があったという確証でも」 「確証があったらなんとかします。それがないから悩んできたんです」 「じゃ、どうしてそういうお疑いを?」 「あれに買ってやった指輪はどうしたんです。時計はどうしたんです。ネックレスはどうしたんです。いや、ばかなことをしたもんで、あれといっしょになるまえねだられちゃ買ってやり、買ってやっちゃまたねだられ、まるで男に|貢《みつ》ぐために金を捨てたようなもんです」 「失礼ですが、李さん」  そばから口を出したのは金田一耕助だ。 「奥さんははじめっからそうでしたか。ごいっしょになられたのは去年の秋だとうかがってますが、その当時からすでにそうでしたか」  李はまじまじと金田一耕助の|風《ふう》|ぼう[#「ぼう」は、「蚌」から「虫」を外したもの。Unicode=4e30, DFパブリ外字=f14d]《ぼう》を見まもっていたが、急にくちびるのはしに微笑をうかべると、 「あなた失礼ですが金田一耕助先生じゃございませんか」 「はあ、ぼく、金田一耕助ですが……」  だしぬけに名前をさされて金田一耕助はちょっとどぎまぎした。あわててぺこりと雀の巣のようなもじゃもじゃ頭をさげた。 「金田一先生がなにか……?」  世田谷署の宮崎警部補が疑わしそうな目をすぼめて、ふたりの顔を見くらべている。  李泰順氏はくちびるのはしに微笑を刻んだまま、 「ああ、いや、さっきから折があったらおききしようと思っていたところです。じつはね、金田一先生」 「はあ」 「こんどの事件が耳に入るとさっそく神戸のほうから、こちらの、まあ、われわれの仲間に連絡して、事件のなりゆきや捜査の経過などを調べてくれたんです。そしたら金田一耕助先生がタッチしてらっしゃるとわかって、むこうでもよろこんでくれたんです。金田一先生は神戸の王文詳という男をご記憶じゃございませんか」 「はあ、いや、よく覚えております」 「いつか助けてやってくださったことがおありだそうですね」 「いえ、ほんのちょっとお役に立っただけで」 「いや、いや、先生がいらっしゃらなければ危なかったと申しておりました。あのひともすっかり立ちなおっていまじゃ関西ではよい顔になっております。ちかく上京するかもしれんと申しておりました。その節はよろしく」 「ああ、いや、どうも」  金田一耕助はすっかりてれてどぎまぎしている。  この男の人柄を熟知している等々力警部や山川警部補はにやにやしていたが、宮崎警部補はいくらか憤然たるおももちだった。高輪署の加納警部補はいくらか金田一耕助のことをしっているらしく、奇異の目を見はって、ふたりの顔を見くらべていた。 「いや、どうもよけいなことを申しあげて失礼しましたが、いまの金田一先生のご質問ですがね」 「はあ」 「はじめはそうじゃなかったんです。いっしょになったころはあれもなかなかよくしてくれまして、こりゃ掘りだしもんをした。そろそろ正式にしようかと思ってるやさきにおかしくなってきたんです」 「いっしょになられたのはいつごろ?」 「去年の秋の十月でした。十月下旬にうちへ入れたんです。それまで半年ほど紅雀へ通いまして、いろいろあれを観察もし、素行なども調査のうえ、くどきはじめたのがやっと十月下旬にみのったわけです」  都築克彦が殺害されたのは去年の秋の九月二十三日の夜のことである。それからひと月のちに朱実が李との同棲を承諾したというのは、事件のほとぼりもそろそろ冷めかけ、どうやら脅迫者とも縁が切れ、しかも、事件のとばっちりがじぶんにまで及んでこないということを、確かめたからではないだろうか。 「おかしくなってきたのはいつごろから?」 「いっしょになったひと月ふた月、すなわち去年いっぱいはよかったんです。それがことしになってからそろそろおかしくなってきたんですね。身のまわりのものが消えはじめたばかりか、なにかわたしに隠しごとがある……そりゃもう本能的にわかるもんで、それだからわたしも腹が立つわけです。そりゃああいう商売をしてた女ですからいろいろ男はあったでしょう。しかし、わたしは既往はとわないつもりでした。それにわたしといっしょになったじぶんにはたしかに手が切れていたんです。ひと月ふた月は神妙にわたしひとりを守っていたんです。それがほかに男ができて入れあげるというのは、あきらかにわたしの愛情に不満をもったということですからな。わたしゃこれでも精一杯あれを満足させるために努力したつもりなんですがね」  李泰順氏のいっているのは経済的な面もあったろうが、同時に|閨《けい》|房《ぼう》のこともふくめていっているらしい。朱実の閨房の生態は|剽悍《ひょうかん》そのものであったらしいから、いかに精力的に見えるとはいえ、五十男にとっては|辟《へき》|易《えき》するような場面もあったのではないか。それがこの男の劣等感となり、嫉妬心となって燃え狂ったのであろう。 「それはそれとして……」  と、等々力警部が話を軌道にもどそうとして、 「はなはだ失礼なんですが、事件のあった晩、すなわち二十一日の夜のあなたの行動についてお話ししていただきたいんですが……これは、まあ、ほんの形式だけのことですが……」 「はあ」  李泰順氏はぎろりと警部の顔を見た。この質問はむろんかれが予期していたところであり、したがって応答の用意もできていただろう。はたしてかれは軽くせきをすると、 「それがはなはだ|遺《い》|憾《かん》ながら、みなさんのご満足のいくていどにお答えすることはむつかしいと思うんです。業務上の、いろいろとまあ、秘密ということもございますから……」 「しかし、ことは殺人事件なんですよ」  さっきからのらりくらりとした李泰順氏の応答ぶりを、腹にすえかねていたらしい宮崎警部補が、横から切込むような口をはさんだ。 「それに被害者のひとりは内縁とはいえあんたの奥さんじゃないか。それでも答えられないというのかね」 「金田一先生」  と、李泰順氏は落ちつきはらった目を金田一耕助のほうにむけて、 「あなたまさかわたしが犯人だとは思ってらっしゃらないでしょうね」 「李さん」  金田一耕助はきびしい目をあいてにむけて、 「それはあなたのご答弁しだいですよ。わたしはまだ白紙なんです。いや、わたしのみならずここにいらっしゃるみなさんのすべてがそうなんです。みなさんはあなたから率直なご答弁を期待してるんですから、ご質問にお答えになったらいかがですか」 「そりゃ、できるだけご期待に添いたいとは思っておりますが……」 「それじゃ、ひとつ、一問一答という形式でいきましょう」  等々力警部が引きとって、 「あなたはあの晩、銀河か明星でお立ちになる予定だったのに、じっさいは金星でお立ちになりましたね。どうして予定がおくれたんですか」 「じつは神戸へたつまえに業務上のことで、もう少し当方の足もとを固めておきたいことがございまして、某所で某氏と打ちあわせをやったんですが、それが思いのほか手間取ったというわけでして……」 「某所と某氏というのをもっとはっきりいっていただくわけには……?」 「それはちょっと……」 「じゃ、質問の方向をかえて、あなた八時五十分ごろ渡部君に電話しましたね。あれはどこからおかけになったんですか。あなたのいわゆる某所から……?」 「いえ、あれはちがいます。そうそう、あの場所は申しあげてもかまいません。あれは渋谷駅構内の売店の赤電話でした。あのときがもう八時五十分でしょう。九時十分の明星にゃとうてい間に合わないとあきらめて、そのつぎの金星でたつことにしたんです」  李泰順氏は問われるままに記憶をたどって、その売店のあった場所を話そうとするのだが、馴れないものにとっては複雑怪奇をきわめている渋谷駅の構内である。売店のある場所というのがもうひとつはっきりしなかった。しかし、李氏が二十一日の夜八時五十分ごろ渋谷駅構内の売店でホープをふたつ買い、赤電話をかけたことはたしからしい。  しかし、李氏がもしかりに八時五十分ごろ渋谷駅構内にいたとしても、はたしてこの事件のアリバイに役立つだろうか。……  金田一耕助があたまのなかでこのふたつの事件に関する時間表を計算しようとしているとき、等々力警部がまた質問を切りだした。 「それから? 八時五十分に渋谷駅構内の売店から渡部君に電話をかけて? それからどうしました?」 「それから国電山の手線でまっすぐに東京駅へいきましたが、はたして明星には乗りおくれてしまいました。そうそう、品川へんで明星とすれちがいましたよ」 「それから?」 「東京駅へ着いたのが九時二十分過ぎ、それから金星の改札がはじまるまでの時間はただなんとなく、八重洲口の商店街をぶらついていましたよ」 「証人がありますか、あんたがその時刻に八重洲口にいたという?」  たまりかねたように宮崎警部補が切りこんだのもむりはない。問題は八時五十分以前より、むしろそのあとにあるのだ。  成城で犯人とおぼしい人物がトランク詰めの朱実を残して、自動車を乗りすてたのは九時十五分ごろだというし、園部隆治が殺害されたのは九時半から十時までのあいだということになっている。そのたいせつな時間にたいするアリバイが、こんなあやふやなことでは宮崎警部補ならずとも、満足ができなかったのもむりはない。 「さあ、それはどうでしょうか」  李泰順氏は無関心に首を左右にふって、 「わたしはだれにも会わなかった。少なくともしってる人間に会いはしませんでした。渡部君がプラットホームへ書類をもって駆けつけてくるまではね」 「あなたその|間《かん》に喫茶店かなんかへ入ったりしませんでしたか」 「ところが金田一先生」  李泰順氏は真正面から金田一耕助のほうへ目をむけた。よく澄んだきれいな目だった。 「われわれは……いや、少なくともわたしはそういうむだはしないことにしてるんです。わたしはただぶらぶらと、商店街のショーウィンドーをのぞいて歩いていただけです」  これじゃアリバイの証明のしようもないと金田一耕助は、この中国人の浪費癖のなさを呪わずにはいられなかった。  等々力警部もあきらめたように、 「いや、それじゃ二十一日の夜のことはそれくらいにしておいて、あの日の昼間のことをきかせてください。あなたお昼ご飯をすませるとどっかへ出むいていかれた。そして夕方の五時ごろかえってくると、急に神戸へいってくるといいだされたというんですが、その|間《かん》どこに……?」 「いや、それもちょっと……」 「いえないとおっしゃるんですか」 「はあ」 「やはり業務上の秘密で?」 「まあ、そういうことだと思ってください」 「李泰順さん」  と、等々力警部は鋭くあいてを見すえて、 「あなたの留守中におなじ興亜ビルにオフィスを持ってる佐伯孝という人物が、興亜ビルのまえで自動車を盗まれてるんですが、あなたそれをご存じじゃありませんか」 「そりゃ、もちろん、しってます。新聞に出てましたから。しかも、その自動車のトランクのなかから少年の死体が出たときいて、まったくびっくりしてしまって……」 「いや、わたしのおたずねしてるのはそのことじゃなく、佐伯氏が自動車を盗まれたという騒ぎを、二十一日の午後までにしってらっしゃったんじゃありませんか」 「わたしが? どうして? だってわたしはあの日の午後オフィスにはいなかったんですからね」  表情の乏しい李泰順氏の顔色からそれがうそであるか、真実であるか、見わけることはむつかしかった。  等々力警部はさじを投げて、 「それじゃもうひとつ、あなた奥さんの貞操に疑惑をかんじて、ふたりの人物にスパイを依頼なさいましたね。坂巻啓蔵君と渡部貞雄君のふたりに?」 「はあ、それは否定いたしません」 「ところが坂巻君には断わられたが渡部君はそれを引きうけた。そして、先月二十二日渡部君は弦巻町一丁目まで奥さんを尾行したが、そこで姿を見うしなってしまった。そのことは渡部君からあなたに報告してあるそうですが、そのおなじ弦巻町の三丁目で盗まれた佐伯氏の自動車が発見され、しかもそのトランクのなかから園部隆治なる少年の死体が出てるんですが、それについてあなたどうお考えになりますか」 「それは……わたしにはよくわかりません。もし朱実と園部という少年のあいだになにか関係があったとすれば、あのへんにふたりのアジトがあったんじゃありませんか」 「それをあなたはご存じじゃ……?」 「いいえ、しりません。それをしりたいと思ったことは思ったんですが……」 「ほんとにご存じないんですか」 「ほんとにしらないんです。警部さん、あのへんになにかがあるらしいってことは、渡部君の報告で気がついていたんですが、それをはっきり突きとめるひまがなかったんです」 「それをあの晩、すなわち二十一日の晩、あんたは突きとめたんじゃないのかね」  鋭く切りこんだのは宮崎警部補だ。この警部補はさっきから等々力警部のなまぬるいやりかたに、じりじりしているのである。 「いいえ、しりません。わたしはいまでも朱実の目ざしていた目的の場所がどこだったかしらないんです」  宮崎警部補がまたなにかいおうとするのを、等々力警部がおさえて、 「じゃ、質問はこれくらいにして、さいごにあなたに見ていただきたいものがあるんですが、これに見覚えはございませんか」  等々力警部がだしぬけに李泰順氏の鼻先に突きつけたのは両刃の短剣、問題の凶器である。さすがの李泰順氏もその瞬間、顔色がかわるのを制御することができなかった。 「ご存じですか」 「はあ、わたしの短剣のようです」 「ようですとおっしゃるのは?」 「いや、失礼しました。これ、たしかにわたしのものにちがいありません」 「これ、どこにおいてあったんですか、少なくとも二十一日の晩は?」 「オフィスにあったはずです。オフィスのわたしの机のひきだしのなかに」 「オフィス? あなたどうしてこんなものをオフィスに保管しておかれたんです」 「さあ、それは……まあ、わたしの気まぐれだと思ってください。家庭においとくよりオフィスのほうがいいと思ったんでしょう」 「じゃ、だれかオフィスのあなたのひきだしのなかに、こんなもんがあるということをしってるものがいましたか」 「さあ、それはどうですかねえ。わたしにはわかりません」 「ところで李泰順さん、説明申しあげるまでもなくもうお察しでしょうが、この短剣が園部隆治少年の胸に突き立っていたんです。それのみならず朱実さんの生命を奪ったのも、これじゃないかと見られてるんです」 「はあ」 「ところが不思議なことには園部少年の死体が発見されたとき、このトランプのカード、すなわちハートのジャックが、これ、こういうふうにこの凶器に刺しつらぬかれていたんです」  等々力警部はハートのジャックをとって短剣に刺してみせると、 「さらに不思議なのは奥さんが刺されたときも、これ、このハートのクイーンがこの短剣に刺しつらぬかれていたらしいんですが、それについてあなたどうお考えになりますか」 「それは……」  と、李泰順氏は苦しそうであった。 「わたしにはわかりません。そういうことは万事あなたがたのご領分、いや、金田一先生のご領分じゃありませんか」 「ああ、そう」  等々力警部はあきらめたように肩をゆすった。 「それじゃ、きょうはこのくらいで……」  と、いいかけて思いだしたように、 「金田一先生、あなたなにか……?」 「ああ、そう、それじゃ李泰順さん、わたしにひとつ質問させてください」 「はあ、どういうことでしょうか」 「あなた奥さんに対するスパイをさいしょ坂巻氏に依頼され、坂巻氏に拒絶されたので改めて渡部氏に依頼されたんでしたね」 「はあ」 「坂巻氏に依頼されたのはいつごろ?」 「はあ、それは……そうそう、二月ごろでした。ことしに入って家内のようすがおかしくなってきたもんですから坂巻君に相談してみたんです。そしたら坂巻君ににべもなく断わられたので、その当座、そういう卑劣なことやめようと思ったんですが、どうにも家内のようすが変なので、改めて渡部君に頼んだのが四月ごろでした。ですから坂巻君に頼んだのはやはり二月ごろということになりましょう。金田一先生、それがなにか……?」 「いや、ちょっとおたずねしたまでです。それじゃ……」  李泰順氏の第一回のききとりはこれでおわった。  このとき李泰順氏はいちおう釈放されたのだが、そのかれがのっぴきならぬ証拠によって、正式に逮捕されたのはその翌日のことである。      十三  昭和三十五年六月二十四日。すなわち事件が発生してからなか二日おいて、ついに弦巻町における朱実のアジトが発見された。ただし、それを発見したのは捜査本部の手柄ではなくて、ひょんなことからわかったのである。  その日、金田一耕助が電話によってたたき起こされたのは朝の十時ごろのことだった。  金田一耕助はわりに|几帳面《きちょうめん》な生活をしており、朝などもたいてい八時には目をさます。それがその日に限って隣室で電話のベルが鳴りはためくまで目がさめなかったというのは、やはりこのまえの事件以来引きついだ疲れと、ちかごろの不快指数のせいだろう。とくにゆうべは寝ぐるしくて、ベッドへ入ってからも二時過ぎまで寝つかれなかったのである。  ベッドの枕下においてあった腕時計をみるともう十時、金田一耕助はあわてふためいてスリッパをひっかけると、隣室へ出て鳴りはためく電話の受話器をとりあげた。 「金田一先生ですか。お早うございます」  と、山崎管理人の声で、 「成城署の山川さんからのお電話ですが……」 「ああ、そう、すぐつないでください」  まもなく山川警部補のいつにかわらぬ落ちついた声がきこえてきた。 「金田一先生、お休みのところをお起こししてまことに恐縮なんですが、すぐにこちらへお運びねがえないでしょうか」 「なにかまた……?」 「いや、どうも先生、すっかりあの娘にほれられたらしいですね、あっはっは」 「あの娘とおっしゃると?」 「古川ナツ子です」 「古川ナツ子? あの娘がなにか……?」 「いや、いまこちらへきてるんですがね。なにか重大な話があるというんですが、それがわれわれじゃいけないというんです。あのもじゃもじゃ頭の私立探偵、つまりあなたのことですがね。あなたのまえじゃないといえないって、いまここでがんばってるんですがね。あっはっは、ひとつわれわれを助けると思って、さっそくご足労願えませんか」 「しょ、承知いたしました。それで、警部さんは?」 「警部へもさっき連絡しました。もうそろそろこちらへお見えになるはずです」 「ああ、そう、それじゃさっそく出かけます。十時半までにはそちらへいけると思いますから」 「お願いします。じゃ、それまでナツ子女史のごきげんをせいぜいとっておきますから」  電話を切ると金田一耕助はさっそく台所へおもむいて、パンを切ってトースターへ。魔法びんの湯を小さななべにうつしてガスにかけると、卵を二個ほうりこんだ。  それからトイレへとびこんで用を足すまにざっと新聞の見出しに目を通す。トイレから出てくるとトースターからもうもうと黒い煙が立ちのぼっている。あわててスイッチを切ってから洗面ののちひげをそりはじめた。ひげをそりおわったころには、卵がすっかりかたくなっているが、なれているのか金田一耕助にはいっこうに苦にならないらしい。  食事にとりかかるまえに山崎さんに電話して、ハイヤーを一台頼んでおいてもらう。ついでに玄関のドアをひらくと牛乳のびんが三本おいてあった。台所へかえって冷蔵庫をひらくと、ハムもあったが切るのがめんどうなので、アスパラガスのかんづめをとりだした。  けっきょく、その朝の金田一耕助の献立はつぎのとおりのみじめなものになってしまった。 [#ここから2字下げ] 真っ黒焦げのトースト二枚、 みごとに煮えかたまった卵二個、 アスパラガスのかんづめ半分。 牛乳一本。 [#ここで字下げ終わり]  食事がおわって、トレードマークの着物に|袴《はかま》と着かえているところへ、山崎さんからハイヤーがきたむね電話でしらせてくる。そこで金田一耕助が山海の珍味をたらふくたいらげたような顔をして自動車に乗りこんだのが十時十分。その間わずか十分だが、これも金田一耕助の芸のうちかもしれぬ。  緑ケ丘町から成城までせいぜい二十分というところ、金田一耕助が|飄々《ひょうひょう》と取り調べ室へ入っていくと、等々力警部と山川警部補、志村刑事の三人が古川ナツ子をからかっているところで、壁にかかった時計はまさに十時半。 「やあ、金田一先生、いらっしゃい」  と、山川警部補がにこにこと出むかえ、 「この|娘《こ》がね、金田一先生でなきゃ夜も日も明けぬというようなことをいうもんですから、われわれ三人、いますっかりあてられてたところなんです」 「あら、ひどい!」  と、ナツ子は十七歳にしてはおとなっぽい|品《しな》をつくりながら、 「あたいなんにもそんなこといやあしないわ。ただ三河屋のキンちゃんに先生のこときいたのよ。金田一耕助先生って見かけはもっさりしてるけど、とってもえらいんだって」 「あっはっは、こりゃごあいさつだね」 「あら、だってキンちゃん、ほめてるのよ」 「いや、ありがとう、ありがとう。だけど、キンちゃんよくおじさんのことしってたね」 「キンちゃんなんでもしってるわ。うっふっふ」 「なにがうっふっふだい?」 「ほんというとキンちゃんがシャーロック・ホームズのファンなの。そいであたしに読め読めっていうでしょう。しかたなしに読んでるうちにあたしもファンになったの」 「夫唱婦随というやつだね」 「あら、それ、なんのこと?」 「旦那さんのいうことならなんでも奥さんがはいはいって、よくいうことをきくことさ」  と、そばから志村刑事が教授した。 「あら、いやあだ。キンちゃんあたしの旦那さんじゃないわよ」 「あっはっは、まあいい、まあいい。それよりナツ子君、きみの好きな金田一耕助先生がいらしたんだから、ひとつ教えてくれないかね。きみのしってることでわれわれのまだ気がついてないことっていうのをさ」 「ああ、そうそう、金田一先生」  ナツ子は金田一耕助のほうへむきなおると真顔になった。 「はあ」 「あたしスパイじゃないのよ。あたしスパイなんかするの大きらい。旦那さんにスパイ頼まれたけど断わったっていったでしょ。それからソノジのことなんかもだれにもいわなかったのよ」 「そうそう、ナツ子君は口が堅いんだね」 「ううん、それほどでもないけど、旦那さんと奥さんとけんかさしたりなんかするのいやだったの」 「うん、うん、それで?」 「でも、あたし女の子でしょ。女の子ってだれでもアクセサリーやなんかに興味持つわね」 「そりゃそうだ。だれだって指輪や首飾りほしいからね。それで……?」 「あたしのいってるのは指輪や首飾りのことじゃないの。奥さんのハンドバッグのことなの」 「ハンドバッグがどうしたの?」 「あのハンドバッグこちらにあるんじゃないの」 「ああ、あのハンドバッグならこちらに保管してあるはずだ。|鰐《わに》|革《がわ》の上等のやつだろう」 「そうそう、錆朱色の……」 「錆朱色というのかい、あれ? なかなか渋い色をしてたが、あれがどうかしたのかい」 「金田一先生もあれを見たのね」 「ああ、見たよ」 「手に取って?」 「ああ、手に取って……」 「それでなにも気がつかなかった?」 「ああ、べつに。なかなか凝ったハンドバッグだと思ったけど」 「だめねえ、金田一先生ったら」  ナツ子は急に背のびをした。まるでどっかの年ごろのマダムかなんかみたいな口ぶりになった。あわれむように金田一耕助を見守りながら、 「女ってものはいろいろ秘密をもってるものよ。ことにうちの奥さん、なにかかくしごとがあったらしいってことしってるでしょ。だからもっと気をつけて調べなきゃ……あのハンドバッグしかけがあるのよ」 「志村君」  山川警部補のさしずを待つまでもなく、志村刑事ははや部屋をとびだしていた。  金田一耕助はまるで|碩《せき》|学《がく》のまえに教えをこう弟子みたいな神妙な顔つきになって、 「そりゃ、気がつかなかったよ、ナツ子君、ぼくもあのなかはよく調べたつもりなんだけどな」 「なかじゃないのよ、あのハンドバッグ、あれ、外側にしかけがあんのよ」 「外側に……?」 「そうよ。あたし偶然それに気がついたのよ。外側にかくしポケットがあってそんなかに……ああ、それそれ」  志村刑事がもってきた錆朱色のハンドバッグに目をとめると、 「ちょっとあたしに貸してちょうだい」  と、手にとって、 「ほら、このハンドバッグ、外側がごつごつしてるから手でさわってみただけじゃ気がつかないのね。ほら、ここ縫い目みたいになってるでしょ。だけどこれ縫い目じゃないのよ。ちょうどチャックみたいなしかけになって、ほらほら、ここがかくしポケットになってんのよ。あら、なにかこんなかにあるわ。金田一先生」  金田一耕助はうやうやしくナツ子の手からハンドバッグを受けとった。そしていまナツ子が解明してみせてくれたかくしポケットのなかから小さな西洋封筒を取りだした。封筒の表にはなにも書いてなかったけれど、厳重にのりがしてあって、封じ目に複雑なサインがしてあった。朱実のサインらしかった。  金田一耕助と等々力警部、山川警部補と志村刑事の四人はおもわず顔を見あわせた。四人が四人とも複雑な顔色だった。  ナツ子はやおらいすから立ちあがると、 「金田一先生」 「はあ」 「あたしスパイしたんじゃないのよ。あたしもこんなハンドバッグ、ほしいなあっておもちゃにしてたらそれに気がついたの。そんときもその封筒が入ってたわ。でも、あたしその封筒あけてみたりなんかしなかったのよ。それ厳じゅうに封がしてあるでしょ。でも、透かしてみたわ。透かしてもなんにもわからなかったけど、ただ写真が入ってるらしいってことわかったわ。だからきっと奥さんのいいひとの写真にちがいない、そう思ったもんだからもとどおりしておいたの。そして、いままでだれにもいわなかったわ、キンちゃんにも。金田一先生にいうのがはじめてよ」 「ありがとう。ありがとう、ナツ子君」  金田一耕助は感きわまったような声を出した。 「あら、いいのよ。そいじゃ」  ナツ子はまるで四十くらいの年ごろのマダムみたいな歩きかたでドアのところまでいったが、そこで立ちどまって振りかえると、 「あたしもうひとつ気がついたことあるんだけど」 「どんなこと? なんでもいいから教えてくれたまえ。このおじさんすっかりナツ子君にシャッポ脱いだんだから」 「あら、なんにもシャッポなんか脱がなくてもいいのよ。金田一先生は男ですものねえ」  ナツ子の目は母性愛にもえている。金田一耕助という男には、どこか女の母性愛をそそるようなところがあるらしい。 「男だからってどういうこと?」 「いいえ、金田一先生はゆうべここでうちの旦那さんに会ったんでしょ」 「ああ、会ったよ、それがなにか……?」 「旦那さんの服装に少しおかしいってとこがあるの気がつかなかった?」 「いいや、べつに……どういうとこ?」 「旦那さんベージュ色の麻の背広きてたでしょ」 「うんうん、それで……?」 「あの背広にしちゃボタンの色が少しどぎつかったし、安っぽかったと思わない」 「そうそう、そういえばあのボタンのつけかたおかしかった。まるで素人の手細工みたいにゆるゆるだったね」 「ああら、金田一先生、それに気がついてらっしゃったの」  ナツ子はわが意をえたりというように、喜色を満面にうかべて、 「そうよ、そうよ、あれ、旅先で旦那さん、どっかでおそろいのボタン三つ買ってきて、じぶんでつけたにちがいないのよ。だって二十一日の夕方、うちを出るときのボタン、あんな粗末なんじゃなかったんですもの」 「ナツ子君」  そばから等々力警部ができるだけ感情を抑制するような声で口をはさんだ。 「きみ、そのボタンおぼえてる。二十一日の夕方、旦那さんがうちを出るとき背広の上衣についてたボタンを」 「もちろんおぼえてるわよ。真珠色のとってもしゃれた気のきいたボタンだったのよ」 「ありがとう、ありがとう、ナツ子君、あとでまたきみに見てもらうものがあるかもしれない」 「ええ、いいわ。じゃ、これで……」  ナツ子がしゃなりしゃなりとマダムみたいな歩きかたで出ていったあと、金田一耕助をふくめて四人の大の男が|茫《ぼう》|然《ぜん》として顔見あわせていた。 「金田一先生、あなたほんとに李泰順の上衣のボタンのつけかたが、おかしかったってことに気がついていらしたんですか」 「はあ、警部さん、それは気がついてましたよ。と、いうより李氏がそれを気にしてたふうでしたからね。しかし、警部さん、ボタンについてなにか……?」 「ああ、いや、それだがね」  と、警部は深呼吸をするような格好をして、 「さっき本庁を出るまえに世田谷の宮崎君から電話で報告があったんだ。だからこちらでまだ話す機会がなかったんだが、例の自動車、園部隆治の死体を詰めこんでた自動車だがね、あの自動車の運転台からあきらかに洋服の上衣のボタンと思われるボタンが一個発見されたというんだ。ひょっとすると佐伯氏のものかもしれないから、須藤刑事をやって調べてみるといってきたが、そのボタンというのが……」 「そのボタンというのが……?」 「真珠色をしたなかなかしゃれたボタンだそうで、だから運転手のもんじゃないだろうといってるんだが……」  四人はまたそこで意味深長な目と目を見かわしていたが、山川警部補が思いだしたように、 「金田一先生、その封筒を……」 「ああ、そう、ちょっとそのはさみを……」  金田一耕助は注意ぶかく封筒にはさみをいれた。  なかから出てきたのは四つに折った|便《びん》|箋《せん》が十数枚、なにやらこまごまと女の筆蹟でしたためてある。その便箋にはさんであったのは名刺くらいの大きさの写真だったが、ひとめそれに目をやったとたん、四人の男のくちびるからいっせいに鋭い叫びがほとばしりでた。  かれらはついに恐喝の種のあかしをそこに発見したのである。      十四  その写真についてあまりくだくだしく描写するのは控えたほうがよいだろう。  それは世にも厚顔無恥なふたりの男女の秘戯の場を、明るいレンズで写しとったものであるが、女のほうはあきらかに朱実であった。しかし、その朱実は眠っているらしく、男になにをされているのか、またいまじぶんがどういう立場におかれているのか、それもぜんぜんしらぬげである。しかし、それが朱実であることだけははっきりしている。そういう用意のもとにその写真はとられているのだ。  それに反して男のほうはさだかではない。朱実の背後に顔をかくして額のほんの一部分しか写っていない。いかに|破《は》|廉《れん》|恥《ち》な男でもさすがに顔を出す勇気はなかったのだろう。 「警部さん」  金田一耕助はそのいまわしい写真から目をそらすと、熱い息をのみくだした。 「これが……この男が都築克彦なんですか」 「いいや、金田一先生」  警部は怒りに声をふるわせて、 「こりゃ都築じゃなさそうです。都築は殺害されたとき三十三だったんです。わたしもその検視に立ちあったんですが、もっとやせて骨ばってましたよ。それに反してこの男、朱実にからみついてるこの手や足はまだ若々しく、まるで少年ってかんじじゃありませんか」 「警部さん!」  山川警部補も息をはずませた。 「こ、こりゃ園部ですぜ。ほら、この頭の格好、こいつは園部隆治ですぜ」 「そうだ、そうだ、金田一先生、この額をごらんなさい。こりゃGI刈りにした頭だ。こりゃ園部隆治にちがいありませんぜ」  金田一耕助はもういちどそのあさましい写真に視線をもどした。頭のかたちのみならず、朱実の白い裸身にからみついているたくましいその太ももは、おとつい世田谷病院で見たあの少年のもののように思われる。金田一耕助にはあのパンツの下からのぞいていた、少年の妙に肉感的な太ももが強く印象に残っていた。 「ちきしょう! 表向き男色関係だなどと触れこんでおいて、そのじつこんなあさましいことをやらせていやがったんだな」 「いや、そりゃ、志村さん、男色関係もあったのかもしれませんよ。だからこんなあさましいことまで|唯《い》|々《い》|諾《だく》|々《だく》とやってたんじゃありませんか」 「そうだ、金田一先生のおっしゃるとおりかもしれない。それをこうして平気でフィルムに収めた都築というやつは、悪魔の申し子みたいなやつだな」 「するとほかにもそうとうの犠牲者があったんでしょうな」 「そうだ、『百唇譜』に記載されている三十六人の女たち。都築にとっちゃ三十六枚のフィルムが大きな財源になってたにちがいない」 「その三十六枚のフィルムはいまどこに?」 「そうだ、金田一先生、そこになにか書いたものがあるじゃありませんか。ひとつそいつを読んでみましょう」  女文字で書かれたその十枚にあまる便箋の末尾には朱実という署名があり、あて名は李泰順さまとなっていた。つまりそれは朱実から内縁の良人へあてた手紙なのだ。  女の筆でこまごまとしたためられたその手紙に目を走らせたとき、四人の男はまるでものにつかれたようなまがまがしさを感じられずにはいられなかった。 [#ここから1字下げ]  万一の場合を思いはかってここにひと筆書きのこすことにいたします。この手紙があなたのお目にふれるときはおそらくあたしはこの世のものではないでしょう。しかし、たとえあなたの手にかかって死すとも、いつまでもあなたに貞操の疑いをうけるのはくやしゅうございますから、ここにひと筆書きのこすしだいでございます。  いっしょになるときあなたは過去のことはいっさい水に流す、既往は問わないから気にかかることがあったら告白するようにと、やさしくおっしゃってくださいました。しかし、いかにあなたがやさしくおっしゃってくだすっても、ここに同封したような写真のようなあさましいことが、女の口から申しあげることができましょうか。  この写真を撮影したのは都築克彦という男でございます。あさはかにもあたしはその男の甘言にだまされしばらく関係をつづけていましたが、一夜怪しい薬で眠らされ、そのとき撮られたのがこの写真で、あたしといっしょに写っているのは、都築の弟子ともいうべき園部隆治という少年でございます。この写真の原板を種にあたしはどのように都築克彦にしぼられたことか!  そのことをいままでひたかくしにかくしておりましたのは、事実があまりにもあさましく、醜悪であるせいでもございましたが、もうひとつは都築克彦が殺害され、その犯人がいまだにわかっていないからでもございました。  都築克彦が殺害されたということを新聞で読んだとき、あたしがどのような恐怖と、それと同時にどのような希望を抱いたかはご想像願えると存じます。恐怖というのはこの写真の原板であるフィルムが警察の手によって発見され、恥を一世にさらすばかりか、殺人事件のまきぞえになりはしないかということでした。希望というのは都築を殺した犯人は、あたしとおなじような手段で都築に脅迫されていた女性のひとりではないか、そして、その女性の手によってあたしのフィルムも焼却されるか破棄されたのではないか、したがってあさましいあたしの秘密は永遠に葬られたのではないかという、虫の好い考えからきたのでした。  さいわい警察ではあたしのことは気がつかなかったようでございます。しかも、脅迫者は殺害され、だれかの手によってあたしの秘密を語るフィルムも、ひそかに葬られてしまったらしい。……そう考えたときのあたしの喜びと解放感! なにとぞお察しくださいませ。ちょうどそのじぶんあなたからご親切なお申しいれがあったので、あたしは喜んであなたのふところにとびこんだのでございます。  しかし、あたしの喜びも解放感もすべて|蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》みたいにむなしいものであったことに気がついたのは、去年の暮れのことでございました。悪魔は死んでも悪魔の弟子がまだ生きていることを思いしらされたのは、去年の暮れも押しせまってからでした。  ある日、あたしは差しだし人不明の手紙を受けとりました。なにげなく封を切るとなかから出てきたのが、ここに同封したこのあさましい写真でございます。  そのときのあたしの驚き! 絶望! 天も地もいっぺんにひっくりかえり、世の中が真っ暗になったような気持ちでした。あのフィルムはまだ残っているのだ。あたしの汚辱も苦悩も解消したわけではなかったのだ! 写真といっしょに手紙が入っていました。その手紙によるとすぐ三万円持参せよ、もし、手紙のさしずにしたがわなかったら、同封したとおなじ写真を会社あてにしてあなたに送るとあるのです。そして届け先として世田谷区|上《かみ》|馬《うま》町二丁目、|駒《こま》|留《どめ》公園わき、井筒屋雑貨店内園池隆哉とあり、時日までちゃんと指定してありました。  この園池隆哉というのが園部隆治であるらしいことはあたしにもすぐわかりましたが、しかし、この場合あたしにいったいなにができましょう。あなたにこんないまわしい写真を見られるくらいなら死んだほうがましでございます。それにあのフィルムを持っているところを見ると、園部が都築殺しの犯人かもしれないとも思ったのです。そうしたらそのことと交換条件としてフィルムを取りかえせるかもしれないと、虫の好いことを考えたのです。けっきょくさんざ思い悩んだすえ、あたしは指定の時日に指定の場所へ出かけるしかございませんでした。やっと三万円のくめんをして。  園部に会ってみてあたしはあいてを甘く見すぎていたことをしりました。園部隆治はまだ二十まえの少年なのです。しかし、あらゆる悪徳を都築から伝授されていたこの少年は都築以上の悪魔でした。いや、悪魔というより化け物でした。あたしが殺人犯人|云《うん》|々《ぬん》のことを口にすると、園部は鼻のさきでせせらわらいました。じぶんにははっきりとしたアリバイがある、そのことはすでに警察でも証明ずみである、だから届けでるなら届けでてみよと空うそぶくのでした。  それのみならずあべこべにおまえこそ都築を殺した犯人ではないのか。なんならこれからいっしょに警察へいこうじゃないかとおどかすのです。もちろんあたしは都築殺しの犯人ではありません。しかし、どういうまちがいで真犯人にされてしまわないでもありません。たとえそのようなことがないとしても、せっかくいままで世間の目からのがれていたいまわしい秘密が、それではすっかり明るみへ出てしまいます。  悪魔のようなこの少年はよくあたしの弱点をしっていました。しかも、この少年はすっかり捨てばちになっているようです。警察にわからばわかれという腹らしいのです。すっかり捨てばちになっている男と、まだまだ世間を取りつくろいたいと思っている女と——この勝負ははじめから決まっていたもおなじです。  とつぜん園部はあたしに襲いかかってきました。こうしてあたしは気持のうえだけでなく、肉体的にも無残に傷つけられ、あなたに対して二重の秘密をもつ身になったのでした。  それからのちのあたしの煩悶、|懊《おう》|悩《のう》——同情してくださいとは申しあげませんが、なにとぞお察しくださいませ。その後あたしは会うたびに、この悪魔のような少年によって心身ともに傷つけられ、あなたに対してますます申しわけない秘密を抱く身になったのでした。  ただ、あたしの救いとなったのは、園部は月に一回しかあたしに会うことを要求しませんでした。また、あたしからゆすりとる金額も月三万円を越えることはなかったのです。  思うに園部はあたしのほかにもあわれな犠牲者をたくさん持っていたのでしょう。したがって肉体的欲望からいっても、金銭的必要上からいっても、ひとりの犠牲者からあまり多くのものを要求する必要もなく、むしろそうすることが危険でもあり、長つづきしないということをしっていたのでしょう。悪魔のような奸智がそこに見られるではありませんか。  それにしてもあたしはなぜこんなことを書きだしたのか、じぶんでじぶんの気持ちがよくわかりません。しかし、ただわかっていることはこんな状態がいつまでもつづくものではないということです。いつか破綻がやってくる。それがどういう形でやってくるのか、嫉妬に狂ったあなたのためにあたしが殺されるか、あるいはあたしが絶望のあまり園部を殺してしまうのか。……  あたしにはよくわかりません。しかし、どんな形ででも破綻がやってきたとき、あたしはあなたにしっていただきたいのです。あたしはあなたを裏ぎり、あなたの心をずいぶん傷つけました。しかし、それはあたしの意志ではなかったのだということを。あたしはいつも忠実で貞淑なあなたの妻でありたかったのです。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]朱 実   李泰順さま  この手記を朱実がいつしたためたのか、日づけがないので残念ながらわからない。しかし、この手記で見ても朱実はあきらかに生命の危険をかんじていたのだ。しかも、その生命の危険は内縁の良人、李泰順からくるものと彼女は予想していたようである。  朱実は生きて屈辱を忍ぶより、むしろ李泰順の手にかかって死ぬことを望んでいたもののようである。ただし、死後もなお良人から疑いつづけられるのを潔しとしないで、ここにこのような手記をしたためておいたのであろう。 「警部さん、これでなにもかもわかったじゃありませんか。犯人はやっぱりあの李ですぜ」  さいごに手記を読みあげた志村刑事は満面を紅潮させて、目玉をくりくり、サルのように歯をむきだした。なるほど小ザルという異名はこんなところからきたのだろう。 「すると、李はとうとう園部のアジトをかぎつけたというのかい」 「そうじゃありませんや。ぎゃくに園部を成城の家へ呼びよせて、|真《ま》っ|斯《こ》の通りとふたりをつぎつぎにやっつけたんでさあ」 「だけど、志村君、ふたりの死亡時刻に一時間ちかく、いや、あるいはそれ以上の時間的ずれがあるのはどういうわけだね」  山川警部補がおだやかに異議をはさんだ。 「いや、そりゃわたしも考えましたが、ねえ、金田一先生」 「はあ」 「死体のおかれていた位置や状態によって、推定死亡時刻にいくらか狂いがあるってことは、ちょくちょくあるんじゃありませんか」 「はあ、そういうケースもままありますね」 「そうですよ、主任さん、それにふたつの死体を検視した医者がちがってたのもまずかったんです。やっぱりあのふたり同時に殺されたにちがいねえ。まず朱実を殺しておいて、かえす刀で真っ斯の通りと園部のやつを……」 「警部さん」  そばから金田一耕助がことばをはさんで、 「志村さんのご高説もご高説ですが、それより上馬町の園部のアジトというのをのぞいてみようじゃありませんか。なにかまたつかめるかもしれませんぜ」 「よし、山川君、李のほうはだいじょうぶだろうな」 「はあ、あっちのほうは厳重に監視をつけてあります。万一国外へでも逃亡しそうな気配が見えたらすぐ逮捕することに……」 「よし、金田一先生、それじゃ」 「警部さん、金田一先生、わたしもいっしょにいきましょう」  志村刑事があたふたとふたりのあとを追っていった。      十五  都会のなかにもこんな家がまだ残っているのかと思われるようなのが、問題の井筒屋雑貨店だった。  すぐそばをよく舗装された五十メートル道路が走っている。ちかまわりもおおむねこぢんまりとした住宅で、どの横町もきれいに舗装されていた。そういう町の町角にその井筒屋雑貨店は位していた。道から少し入り込んだところに、大きな|欅《けやき》の木の下に押しつぶされるように建っているちっぽけな平家建てで、屋根を見るとわらぶきである。  都会の発展があまり急速なので、ときどきこうして都会のなかに田舎が取りのこされているのを見ることがあるが、井筒屋雑貨店などもそのひとつで、雑貨店というよりは昔の荒物屋だ。往時の|立《たて》|場《ば》茶屋のなごりをとどめているのかもしれない。  軒の低い薄暗い店のなかへ入っていくと、いくつくらいか年齢の見当もつかぬような老婆が眼鏡をかけて繕いものかなんかやっていた。あんな暗いところでよく細かい糸の目が見えることだと思われるばかりである。 「やあ、婆さん、ちょっとものをたずねるがね」  志村刑事が声をかけると、老婆はひょいと顔をあげ、眼鏡越しに志村刑事と、刑事の背後にいる金田一耕助と等々力警部を見ているが、その顔色には特別の感情はあらわれていない。志村刑事はきこえなかったのかと思い、 「ちょっと、婆さん、ききたいことがあるんだがね」  と、声をはげますと、 「はい、はい、なんのこってすな」  と、婆さんの声は案外しっかりしていた。 「このうちに園池隆哉というもんが間借りかなんかしてるはずだが……」  あいてが老婆だと思うので刑事の声はつい高くなっていたが、それを聞きつけたのか奥から四十格好のおかみさんふうの女がひょいと顔を出した。おかみさんの顔にはあきらかに|危《き》|惧《ぐ》と恐怖が動揺している。 「ああ、あんたがここのおかみさんかね」 「はい、わたしがここの嫁でございますが……」  おかみさんは裏で洗濯物でもしていたのか、雑布のような前垂れで濡れ手をふいている。紺の筒袖を着てすっかり昔の百姓家のおかみさんの風体である。 「それじゃちょっと聞くがこのうちに園池隆哉というもんが下宿か間借りをしてるはずだが……」 「はあ、あの、そういうあなたは……?」 「そうそう、わしゃこういうもんだが……」  と、警察手帳を出してみせると、おかみさんはみるみる紙のように真っ白になって、 「お母さん、やっぱりいわんこっちゃない。警察のひとがお見えになりましたがな」  と、嫁はいまにも泣きだしそうな声なのだが、そのとき老婆はすこしも騒がず、じろりと眼鏡越しに三人を見ると、 「ああ、そう、このひとたち警察のかたかな」 「はあ、それに園池さんのことをききにおいでになりましたので……」 「いいじゃないか。わたしがいうたとおりじゃないか。あの園池さんが園部という子とおなじ人間じゃったら、いずれは警察からなんとかいってくる、じたばたせずとそれまで待っておいでと、わたしゃ長吉にもあんたにもよくいうといたはずじゃないか」  金田一耕助と等々力警部はおもわず顔を見あわせた。  この老婆ちゃんとしっているのである。しっていてあえて警察へ届けでようとしなかったのは、なにかうしろ暗いところでもあってのことか、それともただたんにかかりあいになるのを恐れたのか。 「それでお咲や、このかたがたどうしろとおっしゃるんだい」  と、小さい針の穴に糸を首尾よく通したところをみると、この老婆、目も耳も達者なのにちがいない。 「いやな、婆さん、園池はこちらに間借りしてたんだろうな」 「お咲や、いま刑事さんはなんとおっしゃったんじゃな」 「はい、お婆さん、刑事さんは園池さんはこちらに間借りしてたんだろうなとおっしゃるんです」 「ああ、そうか、そんならおまえがご案内してあげなさい」  婆さんは三人のほうへは見むきもしないで、背中をまるくして繕いものに余念がない。志村刑事はいまいましそうに舌打ちした。 「それじゃ、あの、みなさん、ご案内申しあげますから、表へ出てその道を裏へまわってくださいませんか」 「ああ、そう、ご苦労様、じゃ、婆さん、またあとで」  老婆はきこえたのかきこえないのか返事もしなかった。  店を出て横の小路をいくと茶のいけがきのなかに鶏舎があり、鶏舎のむこうに豚小屋もあるらしい。この鶏舎や豚小屋を収容しているかなり広い構えの奥に、いまにもひっくりがえりそうなわらぶきの平屋が建っており、その平屋のまえの道はひろびろと取りはらわれて、いま土がこねくりかえされている。気がつくと井筒屋の構えのなかにあるそのわらぶきの平家をのこして、周囲一帯家が取りはらわれて、いま道路の拡張工事が進行中なのである。 「ああ、なるほど。こっちのほうへ何十メートル道路かがつくことになってるんですね」 「それをあの因業婆ががんばってて、立ちのきを承知しねんだな」  道路のなかにくされかかった平家をふくむ一画だけが、出島のように突きだしていて、そのまえの道はもうそうとうの交通量である。 「これじゃこの家のなかでなにが行なわれても、ちょっとひとめにゃつきませんね」  金田一耕助がつぶやいたとき|胡《ご》|麻《ま》|穂《ほ》のかきねについているくされかかった木戸をあけて、 「さあ、どうぞ」  と、おかみさんが顔を出した。  問題の平家は新しくできる道路に背中をむけて建っている。三人がぐるりと荒壁の側面をまわって表側へ出ると、土間の戸がひらいていた。おかみさんはひと足さきに土間へ入ると、 「いま雨戸をあけますから」  なかは土間のほかに八畳と六畳、板敷きの台所に便所もついているが、もはやひとの住めるような家ではなかった。それでも六畳のほうに粗末な机がすえてあり、本箱には参考書が並んでおり、週刊誌が五、六冊散らかっていた。八畳の押しいれには夜具がひとそろい詰めこんである。 「園池はいつごろからこの家を借りてるんだい?」 「はあ、去年の暮れも押しせまってからでした。半年の約束でしたから今月いっぱいで期限が切れるはずだったんです」 「半年の約束というと、なにかそれには意味があったのかね」 「はあ、ここ、いずれは立ちのかなきゃならないことになっているもんですから、そのとき立ちのき料などねだられたら困るというので、お婆さんがそうなさったんです」  なかなか抜けめのない婆さんである。 「園池はどういう口実でここを借りたんだね。いつもここに寝泊まりしてたわけじゃないんだろう」  等々力警部の質問だった。 「はあ、それが大学を受けるのに家にいちゃ勉強ができない。静かなところでみっちり勉強がしたいからと、そうおっしゃって……」 「そのとき園池はひとりできたのかい。ありゃまだほんの子供だが……」 「いえ、おじさんというかたがごいっしょでした。交渉はおもにそのおじさんがなさったんです」  金田一耕助と等々力警部、志村刑事の三人は、おもわずはっと顔見あわせた。ここにはじめて新人物が登場するのではないか。  志村刑事は意気ごんで、 「おじさんていったいどういう男だったんだい」 「どういうひととおっしゃっても、いちどしかお目にかかってないもんですから……でも、ちょくちょくここへきていらっしゃったことはいらっしゃったようですけれど……」 「そのおじさんというのがちょくちょくここへ……?」  志村刑事がいいかけるのを、等々力警部がそばからおさえて、 「いや、おかみさん、それじゃあんたは園池隆哉と名のる少年が、おじさんという男といっしょにはじめてここへきたときのことをしってるわけだね」 「はあ、それはそのときその場にいあわせましたから」 「よし、それじゃそのときのことから話してもらおう。ふたりはどうしてこの家のことをしっていたんだね」 「それはお婆さんが新聞に三行広告をお出しになったからです。お婆さんたとえ半年でも八か月でも遊ばせておくのは惜しいとおっしゃって、K新聞に三行広告をお出しになったところがずいぶんおいでになりましたなかに、園池さんとおじさんの白石さんがいらしたわけです」 「白石というのかね、そのおじさんは?」 「はあ、たしか苗字は白石でした。名前までは覚えておりませんが、いずれ主人がかえってきたらわかりましょう。契約書がとってございますから」  あとで見せてもらった契約書には白石勝三となっていたが、その住所がでたらめだったところを見ると、名前も偽名だったにちがいない。 「それで白石というのはどういう風体だった? 年格好くらいは覚えてるだろう」 「そうですねえ。お年は四十五、六か五十、そんなところじゃないでしょうか。金縁眼鏡をかけておひげをこう鼻の下にちょっぴり、口のききかたなどもしっかりして、まあ紳士でございましたわね。それでお婆さんも信用なすったんですけれど」 「ふむ、ふむ、それで……?」 「はあ、それでそのかたのおっしゃいますのに、これはじぶんの|甥《おい》であるけれど来年大学をうけなければならない。ついては家にいてはなにかと勉強のさまたげになる。だからこちらへ寝泊まりするわけじゃなく、ただ勉強部屋に使いたいんだが貸してもらえないかと、たしかそんなごあいさつでございました。それでこちらの条件を申しあげますと多少お値ぎりなさいましたが、だいたいご承諾になったもんですから、とんとん拍子に話がきまって、夜具だの机だのを運んでこられたのが、去年の暮れの二十五日、クリスマスの日のことでございました」  金田一耕助は等々力警部と顔見あわせて、おもわずかすかな吐息をもらした。  それでいよいよ脅迫の準備完了というわけだろう。正確な時日はわからないけれど、朱実があのいまわしい写真入りの脅迫状をさいしょに受けとったのは、去年の暮れも押しせまったころであるという。園部はここにアジトをきめると、さっそく朱実に脅迫状を書きおくったのであろうが、それにはおじさんなる怪人物が陰で糸をひいていたのではあるまいか。 「それで園池は月のうちどれくらいここへきていたの?」 「はじめのうちはそれでも月のうち十日ぐらいは見えていたでしょうか。なにぶん寒いじぶんでしたから、くると寝床を敷いて電気|行《あん》|火《か》をいれ、それにもぐりこんで本かなんか読んでいたようです。でも、勉強のさまたげになると困るからというんで、わたしどもできるだけこちらのほうへは来ないようにしていたもんですから、よくはわかりませんのですけれど」 「つまりもらうものさえもらえればなにをしようとこちゃしらんというわけだね」  志村刑事の皮肉が通じたのか通じなかったのか、 「はあ、うちのお婆さんは万事その主義でございますから」  と、真顔で答えたのには金田一耕助も等々力警部も苦笑せざるをえなかった。 「ところで女がときどきやってきたろう」 「はあ」 「それについて園池はなんといってた?」 「家庭教師が心配してときどきああして、ほんとに勉強してるかどうかようすを見にくるんだといってました」 「女はひとり? 何人もくるんじゃなかった?」 「はあ、あの……」 「何人もきたんだね」  等々力警部に突っこまれて、 「あたしが気のついたのは三人でした。でも、園池さんがいうのに三人とも家庭教師で、ひとりは英語、ひとりは数学、ひとりは暗記物を見てもらってるんだって……」 「その家庭教師といっしょに寝てたんじゃないのか」 「さあ、そこまでは……それにお婆さんのおっしゃるのに、貸してしまえばむこうさまのもの、家というものは一国一城もおなじことだから、そんなかでなにをなさろうととやかくいっちゃいけないって……」 「おかみさん家族は?」 「主人とのあいだにことし小学校五年の男の子がひとりございます」 「さっき婆さんが長吉といってたのがご主人のことかい?」 「はい」 「なにをしてるんだね。姿が見えないがどっかへお勤めでも」 「いえ、あの、ふだんは豚を飼ったり鶏の世話をやいたり。……きょうはご近所のかたに頼まれて、引っこしのお手伝いにいってるんですけれど、どうぞ主人を責めないでください。主人はもう真っ正直なひとなんですけれど、お婆さんがあのとおりきついひとでございますから」  三人はあとで長吉なる人物に会ったが、低能とまではいかないまでも愚直いっぽうの男で、なるほどこれでは因業婆さんのいうところ唯々諾々であったろうと思われた。 「じゃ、さいごにそのおじさんという人物だが、ちょくちょくこちらへきてたらしいといってたね。さいごに会ったのはいつごろ?」  おかみさんはしばらく|躊躇《ちゅうちょ》の色を見せたあとで、 「はあ、あの晩なんですけれど……」 「あの晩というと?」 「二十一日の晩……」  おかみの瞳は針のように鋭くとがって、消えも入りそうな声だった。 「じゃ、あの人殺しのあった晩なんだね」 「はあ……」  おかみさんの声はふるえていた。 「じゃ、あの晩白石という男はここへきていたのか」 「いえ、あの、ここへきていたのかどうかしりませんが、この近所であのひとの姿を見かけたんですの。服装はだいぶんいつもとちがっておりましたが、たしかにあのひとだったと思うんですけれど」 「じゃ、そのときの話を聞かせてくれたまえ。この近所で見かけたというと?」 「はあ、それはこうです。この道のむこうに知りあいがございまして、あの晩あたしお風呂をもらいにいったんですの。そのかえりでしたからたぶん九時ごろだったろうと思います。あの新道を突っきってこっちへかえろうといたしますと、あのひとが道のこちらがわに立っておりましたの。でも、はじめて会ったときとはすっかりようすがかわって、古ぼけた中折れ帽に、古ぼけたレーンコートを着て、大きな|鼈《べっ》|甲《こう》ぶちの眼鏡をかけておりました」  金田一耕助と等々力警部、志村刑事の三人は、そこでまたおもわずはっと顔見あわせた。それは田村巡査が事件の晩、間題の自動車のそばで見たという男の人相にそっくりではないか。 「だけど、おかみさん、よくそんなにはっきり見えたもんだね。夜の九時といえばこのへん真っ暗なはずだが……」 「はあ、でも、自動車が通りますでしょう。ヘッドライトの光ではっきり見えたんです」 「ああ、なるほど、それで……?」 「あのひとなにかいらいらしたようすで、道のこちらがわに立っていたんです。わたしが見るともなしに見ていると、そのうちに空車が通りかかったので、それを呼びとめて乗っていったんですの」 「どっちのほうへいったのかね」 「あっちのほう……」  おかみさんの指さす方角はあきらかに成城のほうである。 「その晩園池がここへきていたふうかね」 「いえ、わたしが家を出かけたのは七時半ごろでしたが、そのときはこの家真っ暗でした。かえったときもそうでした。でも、お婆さんに聞いてみると、そういえばさっきまで明りがついていた。しかし、こんやはご婦人のお客さんがあったようだから白石さんがきてもむだだろうとお婆さんはわらっていました」 「それ、どういう意味かね」 「はあ……」  お咲のほおが赤らむのを見て等々力警部ははっとしたように、 「おかみさん、ご婦人のお客さんがあるとなぜ白石がきてもむだなのかね」 「さあ、なぜでしょうかねえ」  おかみさんのほおからはもう血の気がひいていて、きょとんとした表情しかそこにない。  お咲はなぜ顔を赤らめたのか、その理由がわかったのか、わからなかったのか、だしぬけに、 「ちきしょう」  と、志村刑事はするどく舌打ちして、あわてて金田一耕助のほうを振りかえった。  かれにもはじめてきのう金田一耕助が提出した、成城における問題の自動車の位置とその向きに関する疑問がわかってきたのだ。  朱実は成城の家で殺害されてそこから運びだされたのではなく、ここで殺害されてから成城の家へ運びこまれようとしていたのではなかったか。  このぼろ家はあらためて志村刑事の手によってくまなく捜索された。足を踏みこめばめりこみそうな古畳までひっぺがされた。しかし、ここで殺人が行なわれたという痕跡はどこからも発見されなかった。それのみならずもしやと|一《いち》|縷《る》の希望をもたせたあのいまわしい写真のフィルムも、ここから発見されるにはいたらなかった。  そして、あのフィルムがこの世に存在する以上、さらに第三、第四の恐喝者があらわれて、またしても血なまぐさい犯罪が演じられるのではないか。その可能性はまだ多分に残されているというべきだった。  そこへ思いおよぶと金田一耕助は、この廃屋同様のぼろ小屋のなかに立ちすくんだまま、うすら寒い|戦《せん》|慄《りつ》を禁ずることができなかった。      十六  それから二時間ののち。  成城署の合同捜査本部の一室で、世田谷署の宮崎警部補から、真珠色のしゃれたデザインの上衣のボタンをつきつけられると、さすがの李泰順氏も空気の抜けた風船みたいにいすのなかにめりこんだ。 「李泰順さん、このボタンに見覚えがないとはいいますまいね。おたくの古川ナツ子はこのボタンは、二十一日の夕方大阪へ立つといって成城のお宅を出られたとき、あなたの上衣についていたボタンにちがいないといってるんですよ。あなたこのボタンをどこで落としたかご記憶はありませんか」  宮崎警部補は|居《い》|丈《たけ》|高《だか》になってきめつけた。  李泰順氏はいすにめりこんだまま臆病そうに部屋のなかを見まわしたが、その目が金田一耕助のうえに落ちると、しわしわとなにかを訴えるようにまばたいた。  宮崎警部補はいっそう声をはげまして、 「李泰順さん、あなたはこのボタンをどこかで紛失した。しかし、ひとつだけつけかえると目につくので、大阪へいってから三つともボタンをつけかえた。李泰順さん、あなたはこのボタンをどこで紛失したんです」 「そのボタンはいったいどこにあったんです」  李泰順氏の声は小羊のように弱々しかった。 「あっはっは、思いだせないんですか。よろしい。じゃ、わたしが思いださせてあげよう。このボタンはね、二十一日の午後興亜ビルのまえから盗まれた佐伯孝氏の自動車、そして、のちにトランクのなかから園部隆治の死体が発見されたトヨペットの運転台から発見されたんですよ。李泰順さん、その点についてひとつご説明をお願いしたいですね」  この部屋には高輪署の連中はいなかった。等々力警部と金田一耕助、世田谷署の宮崎警部補と須藤刑事、成城署の山川警部補と三浦刑事。三浦刑事は万年筆をひかえている。  李泰順氏は一同のきびしい視線がじぶんに注がれているのに気がつくと、 「わたしはばかなことをしてしまった……」  と、がっかりしたようにつぶやくと、額の汗をぬぐう気力も失っていた。 「ばかなことをしたというと、あのふたりを殺したということなのかね」  李泰順氏はそれをきくと弾かれたようにいすのなかで起きなおって、 「と、とんでもない。そりゃちがう。わたしゃだれも殺しやしない。金田一先生」  と、くるりと金田一耕助のほうを振りかえると、 「あなたまで……あなたまでそんな目でわたしをごらんになっていられたのかな」 「まあ、まあ、李泰順さん。これで汗でもふきなさい。それから話をきこうじゃありませんか」  金田一耕助がハンカチを差しだすと、李泰順氏は無意識にそのほうへ手を出しかけたが、 「いや、ハンカチならここに持っている」  と、ていねいに額の汗をぬぐったが、このことがいくらかでもかれの気持ちを落ちつかせたかもしれない。  そばから金田一耕助がいたわるように、 「李泰順さん、こんなときには隠しだてするのがいちばんいけない。多少いいにくいことがあっても正直に話してしまいなさい。あなたはじぶんがいかに危険な立ち場にいるか、よく認識していなければいけませんよ」  李泰順氏は力なくうなずいて、 「いや、面目しだいもありません。さぞ年がいもないと笑われましょうが、それも覚悟のうえでお話ししますからきいてください」  李泰順氏はちょっと考えをまとめたのち、どこか気落ちしたような調子で語りはじめた。 「はなはだお恥ずかしい話だがわたしは生まれつき嫉妬ぶかいようで。たぶんお耳に入っておりましょうが、まえにもいちど台北で大失敗をやらかして、逃げるようにまたこちらへやってきたわけです。まえの失敗があるもんだから、わたしもできるだけじぶんを抑制してるんだが、持ったが病いというのか、妻というものを持つとその行跡が苦になってたまらんというのが、わたしのやっかいな病気なんで」  李泰順氏は苦笑いをしながら、 「わたしも寄る年波で手荒なまねはしなくなりました。だが、それだけに妻の行跡が気になるわけで、ことに朱実はなにかにつけてよかった。いや、よくしてくれたんです。それだけになにか隠しごとがあるらしいのが気にもなり、また腹立たしくもあったわけです。そこで坂巻君や渡部君にスパイを頼んでみたが、いっこうに|埒《らち》があきそうにない。そこでとうとうわたし自身でスパイしてみようと思いたったのが二十一日の午後のことで、わたしにそんなばかなことを思いたたせたのが、佐伯氏のあの自動車なんです」  話が核心にふれてきたので一同のおもてに緊張の色がきびしくなった。 「いまから思えばなぜあんなばかなことをしたもんか……」  李泰順氏はてれくさそうにほおをなでながら、 「わたしはいつか朱実をつけてみて朱実がどんな男に会っているか、この目で見とどけたいとは思っていた。しかし、朱実は自動車で出かけるにちがいない。それをタクシーをやとって尾行するというのは……赤の他人の運転手に年がいもなく若い女房にやきもちやいて……と、そう思われるのがつらくていままで控えていたんです。ところが二十一日の午後三時ごろ事務所へかえってくると、ビルのまえにトヨペットが駐車している。しかも、なにげなく運転台をのぞくとエンジンの鍵穴に鍵がさしこんだままになっている。それがわたしを誘惑したんです」 「それでとっさに自動車を盗む気になったというんだな」  宮崎警部補の語気はあらかった。 「結果からいうとそういうことになるが、わたしは盗むつもりなど毛頭なかった。いちじ借用するが用がすんだら、またもとのところへ返しておくつもりだったんです」 「そ、そんな得手勝手な」  宮崎警部補は熱くなったが、そばから等々力警部が制して、 「まあ、宮崎君、もう少し李さんの話をきこうじゃないか。ふむ、ふむ、それで……?」 「いや、じっさいばかなことをしたもんで」  李氏はいささか放心のていで、 「しかし、そのときは千載一遇の好機のような気がしたもんです。オースチンを近所の空地にかくすともとのところへもどってきた。トヨペットはまだそこにある。しかもあたりにはだれもいない。わたしはそれに乗りこむとまっしぐらに成城まで走らせたんです。そのあいだに計画を練っておいて、そのトヨペットはうちの近所のやぶのかげにかくしておきました。もちろんこんどは盗まれんようにドアにもエンジンにも鍵をかけておいたんです。それから電車やタクシーを利用して築地のオフィスへかえると、急に今夜神戸へ立つことになったと社員に発表したんです」 「なるほど、それで……?」 「それからオースチンを運転して成城へかえると、にわかに神戸へ立つことになったと朱実をあざむき、家を出るとひそかに裏の竹やぶへまわり、トヨペットに乗りこんで朱実の出かけるのをひそかに待っていたんです」  嫉妬に狂った男のあさましさが目に見えるようである。 「そこを古川ナツ子に見られたわけですね」 「はあ、でもあの娘にはわたしとはわからなんだはずなんだが……」 「そうそう、そのときあなたはハンチングや|塵《ちり》よけ眼鏡で変装していたそうですね」 「はあ、荷物のなかへかくして家から持ちだしたものなんです」 「それから……?」 「はあ……」  李氏の額にはふたたび汗がふきだして、隠しきれぬ焦慮の色がそのおもてをくもらせた。 「七時ちょっとまえにはたして朱実がオースチンを運転して家を出ました。わたしはトヨペットであとを追ったんだが、あの弦巻町のへんまでくると、わたしは朱実のオースチンを見うしなってしまったんです」 「オースチンを見うしなったあ?」  宮崎警部補の声は|猜《さい》|疑《ぎ》と怒りにみちている。 「はあ、信じていただけようがいただけまいが、警部さん、金田一先生、これがあの晩のわたしの行動の真実なんです」 「それであなたはどうなすったんですか」 「渡部君の報告によってもあのへんが臭いということになっている。てっきりあのへんに朱実のなにかがあるにちがいないと思ったんです。だから、どこかにオースチンが乗りすててありゃせんかと、わたしは十分か十五分、あるいはそれ以上だったかもしれんが、ぐるぐるあのへんを乗りまわしたんです。ところが……」 「ところが……?」 「これはわたしの疑心暗鬼かもしれんが、だれかが自動車であとをつけてくるような気がしてならなくなった。いまつかまったらどうなるかと、そうなるとすねに傷もつ身ですから、わたしは急に心配になってきた。そこで路傍に自動車を乗りすてて逃げ出してしまったんです」 「それがあの自動車の発見された場所だとおっしゃるんですか」 「それはわからない。あたりは真っ暗だったし、わたしはあのへんの地理には明るくない。ただでたらめに車をおいてきたんです」 「それはだいたい何時ごろ?」 「七時半から八時までのあいだじゃなかったかと思う。わたしゃそれから無我夢中で歩いていたんだが、気がつくと東急の線路に突きあたった。それから駒沢駅まで歩くと電車に乗って、渋谷までいってそこから渡部君に電話をかけたことはきのうも申しあげたとおりです」  まことにいかがわしい話だが、この話のなかに多少の真実性があることを、宮崎警部補も認めないわけにはいかなかった。  あの自動車がとまっていた家の主人山口裕吉は、あの晩七時半ごろ帰宅したが、そのときは自動車はそこになかったといっている。それに反してそのまむかいに住む斉藤信吉が八時ごろに帰宅したとき、あの自動車があの場所に駐車していたといっている。だから問題の自動車があそこへ乗りすてられたのは、七時半から八時までのあいだだろうということになっていた。  また、あそこで自動車を乗りすてた李泰順氏が、夢中で歩いているうちに東急の線路に突きあたり、駒沢から電車で渋谷までいったとすると、ちょうど八時五十分ごろになるだろう。その時刻にかれは渋谷駅の売店から渡部貞雄に電話をかけているのだが、このことは売店の売り子によって証明されている。  さらに李氏にとって有利だったのは、園部隆治が殺害されたのが九時半から十時までのあいだ、だいたい十時前後だろうということである。李氏は十時十分の金星に乗っており、十分まえにすでに東京駅のプラットホームへきていたのだ。園部がどこで殺害されたにしろ、またそれがかりに九時半だったにしろ、その死体を弦巻町のあの自動車へ運んでいったとしたら、とうてい金星にはまにあわない。  また、成城であのオースチンが乗りすてられたのは、九時十五分ごろではないかと推定されている。八時五十分ごろ渋谷駅構内にいた李氏が、それからすぐにオースチンを走らせたとしても、二十五分ではおぼつかないだろう。  だが、それでもなおかつ宮崎警部補は李泰順氏に対する疑いを捨てきれないようだった。 「それで……」  と、等々力警部も|困《こう》じはてたように、 「だれかあなたのあとを尾行していた自動車があるというんですね」 「はあ、これはさっきもいったとおり疑心暗鬼かもしれんのだが、わたしが自動車を乗りすててちかくの横町へまがった|刹《せつ》|那《な》、あとからきた自動車が駆けぬけていったんです」 「その自動車の型や運転手は?」 「いや、それはよくわかりません。わたしが横町へまがって十メートルもいってからでしたから。そうとうのスピードで駆けぬけていったようです」 「すると、だれかあなたがあそこで自動車を乗りすてたことを、しってたものがあるかもしれないんですね」  金田一耕助は深甚な興味を示した。 「もしあの自動車のぬしがわたしの考えどおり、あとを尾行してきたものとすればですね」 「あなた自動車を乗りすてるときどうなさいました。エンジンやドアの鍵は?」 「はあ、それなんですがね」  李泰順氏はてれくさそうに笑いながら、 「さっきも申しあげたとおり用がすんだらその自動車、こっそりもとのところへかえしておくつもりだったんです。それがあそこへ乗りすてるはめになったもんだから、盗まれでもしたら申しわけがありません。そこでエンジンにもドアにも鍵をかけておいたんですが、鍵をもっていっちゃお困りだろうと、座席の窓ガラスを十二、三センチ開けておいて、そこから鍵をなかへ放りこんでおいたんです。それでもし自動車が盗まれたらひそかに弁償するつもりでした」 「十二、三センチ……? 十二、三センチとはどのくらい?」  そばからくちばしをはさんだのは須藤刑事だ。 「だいたいこれくらいですね」  李泰順氏が両手で幅を示すのを見て、 「須藤君、なにか? 十二、三センチじゃいけないのかね」  等々力警部の質問に、 「いや、われわれが駆けつけたときにゃ、三センチくらいしか窓は開いてなかったんです」 「三センチ……? そ、そんなばかな。それじゃ腕が通らないじゃありませんか。わたしはそこから右腕を通して鍵をなかへ放りこんだんですよ」 「いや、われわれが駆けつけたときにゃ、たしかに三センチくらいしか開いてなく、とても腕なんか入らなかった。だからわれわれは|鉤《かぎ》ざおをつくってやっと鍵束を釣りあげたんです」 「須藤君」  ちょっとした沈黙ののちに、口を開いた等々力警部の調子にはきびしいものがあった。 「もういちどあの近所でききこみをやるんだね。李氏があの自動車を乗りすてたあとで、だれか動かしたものがあるんじゃないか」 「はっ!」  須藤刑事は屈辱のために真っ赤になった。 「李泰順さん」  金田一耕助が思い出したように、 「あなたにひとつおききしたいことがあるんですが……」 「はあ、どういうことですか。こうなったらなにもかも正直に申しあげますが」 「あなたいつか嫉妬に心を狂わせられたとき、ハートのクイーンとハートのジャックを二枚かさねて、真っ斯の通りと朱実さんのまえで、短剣で刺しつらぬいたことはありませんか」 「いや、恐れ入りました。金田一先生」  李泰順氏はていねいに頭をさげると、 「そのことをきのう申しあげるべきだったんでしょうが、つい……」 「それ、いつごろのこと?」 「先月のなかばごろのことでした。あの短剣をオフィスに持ってったのもひとつはそのためで、じぶんでじぶんが抑制できなくなるのを恐れたためでした」  朱実がああいう遺書を書いたのもそういうことがあったからではないか。 「そのことをしっているのは?」 「そりゃ朱実だけでしょう。朱実がだれかにしゃべればとにかく」  朱実は園部にしゃべったかもしれない。しかし、その園部は殺されている。園部がだれかにしゃべったであろうか。しゃべったとすると自称おじさんの白石勝三ではないか。  こうして白石勝三という人物が|俄《が》|然《ぜん》大きくクローズアップされてきたが、ひょっとすると、それが白金会館の掃除夫をしている藤野磯吉ではないかという見こみで、さっき高輪署の加納警部補と辰野刑事がここを出ていったばかりである。  それはともかく李泰順氏だが、殺人の容疑はともかくとして、自動車を盗んだという罪はまぬがれなかった。かれはそのまま成城署へ留置されることになったが、それはやむをえないことだったろう。      十七 「いやねえ、そうたびたびこられちゃ……」  志村刑事をまえにして水原ユカリはすっかりおかんむりである。 「このあいだいらしたのはたしか三浦さんとかおっしゃったわね。まだお若いかた。あのかたになにもかも申しあげたつもりなんですけれど。あたしほんとうに坂巻さんとは通り一遍のおつきあいで、べつにどうってことはないんですのよ」  ユカリがぶりぶりしているのも無理はない。人気を売り物の映画スターがそうたびたび刑事の訪問をうけるということは、たしかに外聞にかかわることだったにちがいない。 「いや、そのご迷惑はよくわかってますがね」  こういう扱いにはなれている。志村刑事はユカリのまえに腰をおろすと、ゆうゆうとたばこを吸いはじめた。  かれは上馬の井筒屋からこの経堂赤堤に住む水原ユカリをひとりで訪ねてきたのだが、こうしてやってきてみていまさらのように、園部隆治のアジトから、この家が意外に近いところにあることに気がついた。自動車を走らせれば五分か六分というところではないか。  三浦刑事が調べたところによると、この家はM財閥の重役だった細木民蔵氏の邸宅の一部だそうである。戦後細木氏がパージになったショックで倒れて以来、いまもって|臥床《がしょう》したきりなので、離れを水原ユカリに貸しているのだそうだ。  離れといっても一戸建ちもおなじことで、母屋とおなじ屋敷内にあるということだけらしい。屋敷はそうとう広く千坪は越えているだろう。だからユカリの借りている離れは母屋ととおくはなれているうえに、門なども裏のほうに新しくつくってあるので、離れの住人は母屋とは没交渉の生活ができるわけだ。  門のなかには屋根だけのしゃれた自動車置き場があり、ブルーバードがおいてあったが、運転手はいないらしい。  三浦刑事の調査によると水原ユカリはこの家に、たったひとりで住んでいるのだそうだが、最近多忙をきわめている彼女は、朝食以外この家でとることはめったにないのだろうということである。 「いや、三浦君の報告でだいたい十分なんですが、ついこの近所……と、いっても上馬にある井筒屋雑貨店まできたもんだから……」  志村刑事はゆうゆうとたばこをふかせながら、それとなくユカリの顔色をうかがっているが、ユカリの顔色にはべつになんの変化も見られなかった。彼女は徹頭徹尾ぶりぶりしている。  水原ユカリはテレビの子役スターからスタートして、いまでは東京キネマの純情型スターと騒がれているのだが、こうして面とむかってみると純情型にも限度があることがわかる。  子役から苦労してたたきあげてきただけに、あどけない容姿やしぐさのなかにどっか世間ずれがしており、人を食ったところがあるのは当然だろう。テレビや映画に出てくる彼女の役の純情娘を想像していると、そうとう印象がちがうはずなのだが、若い三浦刑事にはそこまで見ぬけなかったのかもしれない。  この女、よもや処女ではあるまいと、古狸の志村刑事は失礼なことを考えながら、ユカリと相対しているのである。 「つまり、その、いまいったとおり上馬の井筒屋雑貨店までいったついでに、ちょっとこっちへまわってみたら、ちょうどあんたがいたもんだからね」 「うっふっふ、あたしってついてないのね」  ユカリはけだるそうにソファに身を埋めて、 「いまスタジオからかえってきたばかりなのよ。これからSTVへ出かけなきゃなんないの。こんなことならスタジオからまっすぐにテレビへいきゃよかった。うっふっふ、それでご用というのは? あたし十分以内にここを出なきゃなんないの。できるだけ簡単にしていただきたいんだけど」 「いや、そりゃわたしもわかってるつもりだ。それじゃ単刀直入におたずねするがね、坂巻啓蔵氏とはどのていどのつきあいなんだね」 「そりゃさっきもいったじゃないの。こないだ三浦さんてかたにも申しあげといたわ。べつにどうってことはないのよ。まあ、いってみればあたしのファン、ただそれだけよ」 「霧ヶ峰のスキー場が初対面だとか……?」 「そうそう、それなんだけど……それについてあたしちかごろある疑いをもってるのよ」 「ある疑いって?」 「あのときあたし愚連隊みたいな連中に絡まれて弱ってたの。そこへあのひとがやってきて助けてくれたんだけど、いまから思えばあの愚連隊、サクラじゃなかったかって気がするの」 「サクラ……? つまりあんたと接近するためにじぶんの仲間を愚連隊にしたてて、そこへ宮本武蔵か岩見重太郎気取りで出現して、あんたを救ってみせたというわけかね」 「いまになってそんな気がしてきたの。あんまりタイミングがよかったんですもの」 「だけど、なんだってそうまでしてあんたに接近しようとしたんだろう」 「まあ、失礼ね」  あどけない目で刑事をにらむまねをすると、 「あたしこれでもそうとう人気もんのつもりなのよ」 「やあ、失敬失敬、それじゃあの晩のことをききたいんだが……」 「ええ、どうぞ」 「あの晩、坂巻君は七時ごろここへきたようにいってるんだが……」 「七時ちょっと過ぎてたかもしれないわ。あの晩十二時からSTVでビデオどりがあったんで、あたしここでせりふのおけいこしてたのよ。そしたらあのひとがやってきたんで、ちょうどさいわいとせりふの受けわたしのお手伝いしてもらったの。そうそう、あたしすっかり忘れてたわ」 「なにを?」 「このこと三浦さんにもいうの忘れてたけど、八時半ごろ母屋のお手伝いさんのチカちゃんてひとが、|到《とう》|来《らい》ものですけれどとバナナを届けてくだすったの。あたしそこの窓から頂戴したんですけれど、チカちゃんがひょっとするとあのひとの姿見てるかもしんない」  このことはそのあとで母屋の女中のチカに当たってたしかめられたが、チカも坂巻の顔は見ていなかった。しかし、いすに腰をおろしてまえかがみになっている男のうしろ姿は見ているのである。その時刻は八時半ごろだったという。 「それから十一時ごろここを出てSTVまできみを送っていったとか……?」 「ええ、そう」 「しかし、十二時からビデオどりがあるとすれば十一時にここを出ちゃ遅いんじゃないか」 「そうそう、それ、あたしが大失敗しちゃったの」 「大失敗とは?」 「あたしまだもうひとつせりふがしっかり入ってなかったので、車のなかでけいこしてたの」 「と、いうと坂巻君も運転ができるんだね」 「そうよ、だからあのひとにいっしょにいってもらったんです」 「ああ、なるほど、それで……?」 「ところがその本、とじが悪くて八ページほど落丁があったの。いえ、落丁たってはじめから抜けてたんじゃなく、あたしが引っくりかえしてるうちに抜けおちたのね。車のなかでその八ページがないことに気がついて……あれ、三軒茶屋のへんだったわね。それでもういちどこの家へ引きかえしてきたので、そんなに遅くなっちまったの。あやうくすべりこみセーフってとこだったわ。その本どっかそこいらにあるはずよ」  ユカリが立ちあがったとき電話がかかってきた。電話はテレビ局かららしくユカリは遅くなったことをあやまっていた。  なるほど、この女は多忙なんだと志村刑事が腰をあげたときユカリは受話器をおいて、 「ごめんなさい。まるで追いたてるようで……そうそう、これがそのときの本よ」  台本の表紙には『さらば青春』とあり、ちかごろ評判の連続ドラマであることを志村刑事も思いだした。なるほどそのなかの八ページがとじがゆるんで落丁になっている。  志村刑事はこれからSTVへ出かけるというユカリのブルーバードに乗っけてもらって、途中渋谷の南平台付近で車をおりた。園部隆治の父の辰馬はまえにもいったとおり有名な民事弁護士で、南平台にかなり豪勢な邸宅をかまえている。  志村刑事は改めて隆治の部屋を調べさせてもらうつもりであった。ひょっとするとあのいまわしい写真のフィルムが見つかりはしないかという淡い希望を抱いて。……  ちょうどそのころ高輪署の辰野刑事は、芝白金会館の地下一階にある藤野磯吉の部屋で藤野をあいてに将棋をさしていた。  白金会館は有名な神門財閥の傍系会社神門土地の経営になっているが、かつて満州の特務機関に働いていたという藤野磯吉は、神門財閥のおえらがたに知りあいがあり、その紹介でかれは白金会館の掃除夫という職をえたのみならず、地下一階にひと間しかないが、それでも部屋まであてがわれているのである。  財閥のおえらがたはかれにもっとよい職をとすすめたが、藤野はいまの仕事がいちばん気に入ったとかで、数年まえにこの会館ができて以来、かれはこの部屋に住みついている。  満州で妻子をうしなって以来二度とめとらず、地下一階のこの部屋でもぐらのような男世帯を張っているのだが、そのわりには部屋のなかはいつもきちんとかたづいていた。部屋のつくりは洋風だが、内部は床をあげて畳をしき、ちょうど八畳になっている。その奥に簡単な流しがついていて、ひとりもんの炊事くらいはできるようになっている。 「おっ、ちょ、ちょい待ち。その歩突きはちょっと待ってもらおうか」 「あっはっは」  藤野磯吉はのどのおくで笑うと、 「よく待ったをするおかただ。さっきからこれで四度目だぜ」 「だっておまえさんは油断がならない。いかに昔取った|杵《きね》|柄《づか》かもしらんが、右と思えばまた左、|端《たん》|倪《げい》すべからざる将棋だからね」  藤野はぶすっとした顔でたばこをすぱすぱ吸っている。いまどき珍しいきせるである。  辰野刑事と藤野磯吉、ともに同年輩の四十五、六だが、辰野刑事のでっぷりとした肥満型なのに反して、藤野は全身の肉をそぎおとしたような|痩《そう》|身《しん》である。ただし、その痩身には一本強い筋金がとおっているような|強靭《きょうじん》さがある。  いつもきれいにかみそりをあてたほおはげっそりこけているが、それはけっして病弱な感じではなく、この男のくぐってきた風雪のなみなみならぬものを思わせるきびしさがある。額がひろく、|眼《がん》|窩《か》がぐっと落ちくぼんでいるのがこの男の特徴で、なんとなく陰惨なかんじをひとにあたえるようである。 「ときに大将」  辰野刑事は盤面をにらみながら、 「おまえさんなぜかみさんを持たないんだね」  ごくさりげない調子だが藤野はこたえなかった。吸いがらを掌にはたきだすと刻みたばこを詰めかえて吸いつけている。いまどきこんな器用なまねのできる男は珍しい。 「おれ、ちかごろ大将について妙なうわさをきいたんだがね」  とつぜん辰野刑事は顔をあげると、将棋の駒をもてあそびながらあいての顔を見て、 「おまえさん女の子より男の子のほうが好きだっていうじゃないか」  これは辰野刑事の当てずっぽうなのだ。もしそういう根拠をもっと早くから握っていれば、かれはこの男から目を離さなかったろう。  藤野磯吉はくぼんだ眼窩のおくからまじまじと辰野刑事の顔を見すえているが、そのくちびるからはあいかわらず返事は聞けなかった。 「おまえさん五反田にアザミというゲイバーがあるのをしってるだろう。あそこへちょくちょく出入りをしてるようだって、うちの若いもんがいってるんだがね」  これも辰野刑事の当てずっぽうだった。ただし、五反田にアザミというゲイバーのあることは事実であった。  藤野磯吉はそのバーをしっているともいないとも、またそこへ出入りしているともいないとも答えなかった。あいかわらず陰惨な目で辰野刑事の顔を見ていたが、ふとその目を盤面に落とすと、 「この勝負、どうやらおれのもんらしいな」  と、手にした駒を投げ出すと、きせると刻みたばこを机のうえにおいて、やおら座ぶとんから立ちあがった。 「おい、どこへいくんだ」 「事務所にちょっと用事がある。いつまでもおまえさんのお相手はしておれない」 「よし、じゃ、おれも帰ろう」  辰野刑事は靴をはきながら、 「それじゃ大将は二十一日の晩、五反田のTキネマで映画を見てたというんだね」 「ああ、そう、はっきりとしたアリバイがなくてお気の毒だったな」  階段をあがって地階へ出ると、正面のエレベーターのまえに男がひとり、玄関のところに女がひとり立っていた。 「ちょっと、ちょっと、藤野君」  と、辰野刑事が呼びとめて、 「きみ、マッチを持ってないかね。マッチを持ってたらちょっと貸してくんないか」  藤野磯吉からマッチを借りてピースを一本吸いつけると、 「いや、ありがとう」  辰野刑事はそのまま白金会館から外へ出た。藤野磯吉が事務所へ入っていくのを見送って、エレベーターのまえの男と玄関のところにいた女が、ぶらぶらと辰野刑事のあとを追った。成城署の田村巡査と井筒屋雑貨店のおかみのお咲である。  白金会館と高輪署は目と鼻のあいだにある。辰野刑事がかえってくると、 「どうだったい、藤野のやつあ……?」  と、加納警部補が待ちかまえていた。 「どうもね、ひと筋縄じゃいけませんや」 「二十一日の晩のアリバイは?」 「そりゃゼロ、五反田のTキネマで映画を見たとほざいてるんですがね」 「面通しのふたりはどうした?」 「あとからやってきますがね。どうもあんまりぱっとした反応じゃなさそうでしたぜ。なんしろ相手は特務機関にいたやつですからね。変装なんかもお手のもんじゃないですかねえ」  はたしてあとからやってきた田村巡査とお咲の報告はすこぶる悲観的だった。  田村巡査の話によると二十一日の晩、問題の自動車のそばで会った男は、あんなにほおがこけてなかった。それに色がもっと浅黒かったと思うといっている。  それに反してお咲の話によると、去年の暮れに園部隆治といっしょに店へやってきた白石勝三という男は、もっと色が白かったように思うといっている。そして全身があの男よりふくよかな感じだったといっている。それ以後お咲はその男を、明るいところで近くから見ていないのだから問題にならない。  目撃者の記憶というものはあまり当てにならないものだが、あいてが意識して面貌をかえていたとしたらなおさらのことである。  藤野磯吉のもっとも大きな特徴は広い額と落ちくぼんだ眼窩にあるのだが、お咲と田村巡査が目撃した男はふたりとも帽子をかぶり眼鏡をかけている。そぎおとしたようなほおはふくみ綿で修正できるのではないか。お咲がたったいちど明るいところで見た白石勝三という男は、もっと全体がふくよかな感じだったといっているが、冬のことだから下にうんと肉を着ていれば、体の感じもごまかすことができたのではないか。  お咲も田村巡査もぜったいにあの男ではなかったとはいっていない。あの男であったような気もするが……はっきり断定するには躊躇を感じるというふうなのである。  しかし、それでは捜査当局として藤野をとっちめる決め手とするわけにはいかなかった。 「ちきしょう」  田村巡査とお咲がかえっていったあとで、辰野刑事は地だんだを踏まんばかりにくやしがって、 「やつめ、よっぽど変装術に|長《た》けてるんですぜ。しかも、そいつに自信をもっていやあがる」 「自信をもっているというと?」 「やっこさんのほうでは田村巡査に気がついたらしいんです。ぎろっと見てましたからね」 「ひと筋縄じゃいきそうにないね」 「ひと筋縄でいくやつじゃないことは去年から試験ずみですがね。ときにアザミのほうはどうしました?」 「五反田のゲイバーか。いま田所君がいってるんだがまもなくかえってくるだろう」  ゲイバー・アザミへききこみにいった田所刑事が興奮のおももちでかえってきたのは、それから三十分ほどのちのことだった。 「主任さん、やっぱりあなたのおっしゃったとおりですよ」 「藤野のやつ、やっぱりアザミへ出入りしているのか」  加納警部補と辰野刑事はほとんど異口同音である。 「いや、ちかごろはあんまりこないそうですが、去年あたりは月に二、三回はやってきて、当時あそこにいた松本圭二、源氏名をおケイちゃんといってた男の子をよく連れ出してたそうです」 「ち、ちきしょう!」  辰野刑事の目は真っ赤に燃えた。  それを見おとしていたということに対して、辰野刑事はふかい自責と屈辱の念をおぼえるのだ。  五反田のへんにゲイバーがあるときいているが、それを調べてみたらどうかというのは金田一耕助のサゼスチョンだった。      十八  昭和三十五年六月二十五日。午後二時。  金田一耕助は例によって例のごとく|飄々《ひょうひょう》として、成城署の合同捜査本部へ姿を現わした。  そこにはすでに等々力警部をはじめとして、関係各署の係官が顔をつらねて、それぞれの報告を持ちよっているところであった。 「金田一先生、まことに面目次第もございません」  金田一耕助の顔を見るとまずいちばんに|叩《こう》|頭《とう》したのは高輪署の辰野刑事だ。 「藤野のやつやっぱり先生のおっしゃるとおりでしたよ」 「あっはっは、やっぱり同性愛趣味を?」 「そうです、そうです、アザミというゲイバーになじみの男の子がいたそうです。だから、田村君なり井筒屋のおかみなりが、はっきりこの男だといってくれれば、いますぐにでも|埒《らち》があくんですがね」  と、辰野刑事はきのうの面通しの不首尾を語ってくやしがった。 「いや、目撃者の記憶というものはおおむねそういうもんです。しかし、警部さん」 「はあ」 「白石勝三が藤野磯吉だったとして、こりゃどういうことになるんでしょうな」 「そりゃいうまでもなく、つまり、都築克彦を殺した犯人は都築を殺したものの、かんじんのフィルムを手に入れることができなかった。われわれもそれに気がつかなかった。そいつをあの部屋の掃除をおおせつかってた藤野磯吉が発見した。そこで園部隆治を仲間にして、女連中を脅迫してた……と、そういうことになるんじゃ……?」 「しかし、警部さん、それなら藤野はなぜ園部を殺しちまったんです」  そばから鋭く|反《はん》|駁《ばく》したのは世田谷署の須藤刑事だ。このひとはまだ李泰順氏犯人説を捨て切れぬようである。 「そりゃなにか仲間割れみたいなもんがあったんじゃないかな。あるいはこれ以上園部を生かしといちゃ、じぶんのおしりに火がつくとでも思ったのかもしれん」  つぶやくようにいったのは高輪署の加納警部補。 「しかし、そうすると藤野はどうしてあの短剣を手に入れたんだろう。また、ハートのクイーンとジャックのいきさつをどうしてしっていたんだろう」  これは世田谷署の宮崎警部補のもっともな疑問であった。 「いや、短剣をどうして手に入れたかどうかはべつとして、トランプのいきさつは朱実が園部に話してあった。それを園部から聞いたんじゃないのかな」  しばらくそのことについて加納、宮崎の両警部補のあいだで論議がかわされたが、そのうちに等々力警部が思い出したように、 「そうそう、それより、宮崎君、問題の自動車についてはどうかね。あの自動車八時前後からずうっと弦巻町にあったのかね」 「いや、それについちゃわたしから釈明いたしましょう」  面目なさそうに口を出したのは須藤刑事だ。 「あの山口の家のすぐ近所に秋山卓也という学生が寄宿してるんですが、その秋山があの晩、すなわち二十一日の晩の十時過ぎ、あそこを通りかかったところ、自動車なんかなかったといってるんです」 「そりゃたしかだろうな。秋山という学生のいうことは?」 「はあ、わたしもだから突っこんだんですが、秋山がいうのにそのとき山口家のへいの外でシャーシャーやったというんですね、立ち小便を。だからまちがいはないというんです。ところが……」 「ところが……?」 「はあ、ところがそれから一時間ほどおくれて十一時ごろ、やはりあの近所に住む村山増造という会社員が渋谷でパイ一やって、やっぱりあそこでシャーシャーやったそうです。そのときにゃちゃんと自動車があの場所にあったというんです」  金田一耕助と等々力警部は顔を見あわせた。  そうすると八時から十時までのあいだにだれかがあの自動車を動かした。そして十時から十一時までのあいだにまたあそこへ持ってきておいていったということになる。それはいったいだれなのか。 「なるほど、そうすると李泰順氏には完全なアリバイが成立するわけだな」 「そうはいきませんよ、警部さん」 「そうはいかぬというと?」 「ひとにやらせるって手もありますぜ。あの場所にあの自動車があるということを、いちばんよくしってたなああの男ですからね」  等々力警部もなるほどと思ったのかそれ以上はいわなかった。  金田一耕助は思いだしたように、 「山川さん」 「はあ」 「これはいままで李泰順氏に直接聞くのを忘れていたんですが、あの人八時五十分ごろ渡部貞雄に電話をかけてますね。書類を東京駅まで届けるようにって、ありゃほんとに忘れたんでしょうか。それともなにかためにするところあっての作為だったんでしょうか」 「そうそう、そのことについてわたしも李泰順にきいてみました。するとあの男のいうのにありゃほんとに忘れたんだそうです。だから金星で立つつもりならまだそうとう時間があったので、じぶんで取りにいこうかとも思ったそうです。ところがそのときふと渡部が残っているはずだがと思いついて、ためしに電話をかけてみたら、うまいぐあいにまだいたので持ってこさせたといってるんです」 「じゃ、作為じゃなかったというんだな」 「本人はそういってるんですがね」 「それじゃ、志村君、こんどはきみの話をきこう。きみはきのう水原ユカリと園部のうちへいったはずだね」 「はあ、それじゃ園部のほうからお話ししますが、いや、もうあきれかえったもんで」 「あきれかえったとは?」 「いや、こんなことになったんで親たちも少しは神妙にしてるかと思いきや、おやじさんはあれ以来妾宅に入りびたりでうちへかえってこねえんだそうだ。おふくろさんはおふくろさんで、きのうはごひいき歌舞伎役者とモダンバレーがお悔やみではちあわせ、目を白黒というところだったらしい」 「そういう調子じゃせがれのことなんかてんでうっちゃらかしだっただろうね」 「だと思いますね」 「それで、フィルムのほうは?」 「ええ、そりゃ息子さんの部屋を捜さしてほしいっていいますとね、おふくろさん、さあさあどうぞという調子で、あの子のことなんかぜんぜんしりませんわよといった調子なんですね。だけど捜査の結果は思わしくありません。けさも三浦君に手伝ってもらったんだが、どうもあそこにゃねえようだな」 「そりゃやっぱり藤野のやつが持ってるんですぜ」  と、辰野刑事がそばからくちばしをはさんだ。 「それで、水原ユカリのほうは?」 「あれもとんだ食わせもんですぜ。三浦君、きみはよろしくあしらわれたらしいが、純情女優がきいてあきれる。そうとうのもんですぜ」 「そりゃあの娘も子役あがりでいろいろ苦労してるでしょうからね」  よろしくあしらわれたという若い三浦刑事はさすがに赤くなっていた。  金田一耕助は志村刑事からいちぶしじゅうの話を聞きおわると、等々力警部を振りかえって、 「警部さん、ひょっとすると水原ユカリも『百唇譜』のなかに登録されてるんじゃないでしょうかねえ」  一同は虚をつかれたようにちょっとぽかんとしていたが、山川警部補ははっとしたようにさっそく「百唇譜」を取りだした。水原ユカリだとY・Mになるはずだが、そういうのは「百唇譜」には見あたらなかった。 「三浦さん、水原ユカリは本名なんですか」 「ああ、そうそう、あの娘の本名は津村ウメ子というんです」  しかし、U・Tというのも見あたらなかった。 「どうもないようですねえ」  と、山川警部補は「百唇譜」を繰りながら、 「ここにひとつ一九五七年十月六日に唇紋をとられた女に十六歳というのがいるんです。これが三十六人の女のなかでいちばん若いんですが……」 「頭文字は……?」 「C・Oとなってますがね」 「あっ」  と、叫んだのは三浦刑事だ。その目はものに|憑《つ》かれたように大きく見ひらかれている。 「三浦君、どうしたの?」 「C・Oといえば沖野ちどりの頭文字……」 「沖野ちどりってだれだい?」 「水原ユカリの子役時代の芸名なんです。一九五七年といえば昭和三十二年ですね。そのじぶんまでユカリは沖野ちどりの名前でテレビの子役に出ていたんですが、そろそろ|薹《とう》が立ってきたのでテレビから引退してたのを、去年の秋から映画にカムバックしたんだそうです。そのとき沖野ちどりじゃあんまりもっさりしてるというんで、いまの芸名に改めたんだと……」  三浦刑事はいまにもべそをかきそうな顔色だったが、ほかの連中はその反対に、また新しい興奮にかきたてられたようである。  その晩、金田一耕助は思いがけなく、神戸から上京してきた王文詳氏の訪問をうけた。李泰順氏もいっていたとおり、王文詳氏は関西在住の中国人として成功者の部類に入るらしい。  金田一耕助がこのひとをやっかいな事件から救いだしたのは、昭和二十五年のことである。あれからちょうど十年、金田一耕助も|老《ふ》けたが王文詳氏の頭髪もすっかり白くなっている。  しばらく|久闊《きゅうかつ》を叙しあったのち王文詳氏は憂色におもてをくもらせて、 「金田一先生、こんやこうしてお伺いした理由は、あなたにもすでにおわかりでしょうが、じつはわたし、きょう李泰順君に会ってきました」 「ああ、そう、成城へいかれたんですか」 「はあ、会っていっさいがっさい話をきいてきましたが、あの男もばかなことをしたもんで……いったいどんな調子なんでしょうかね。捜査当局の考えは?」 「王さん」  金田一耕助は微笑しながら、 「それをわたしにいえというのはむりですよ」 「いやいや、それはごもっとも。しかし、李君の話によるときのうあなたがたに申しあげたのはすべて真実である、じぶんはぜったいにだれをも殺していないといってるんですが……」 「王さん、日本の警察をご信頼ください。あのひとのいうことが真実なら警察のほうでまもなく証明してくれますよ」 「それはもちろんそうでしょうが、先生のお力でなんとかそれを確実なものにしていただきたいんで。じつはわたし、昔あのひとにひとかたならぬ世話になってるもんですからね」 「そりゃもちろん、わたしとしてはできるだけのことはしているつもりです。しかし、それは個人的な感情は抜きにしてですよ」 「いや、それはもちろんよくわかってますが……」  それからしばらく金田一耕助は王文詳氏と話をしていたが、そのうちにふと思いついて、 「そうそう、王さん、わたしあなたのお知恵を借りたいことがある」 「はあ、どういうことでしょうか。わたしの知恵でまにあうことならなんなりと……」 「いまあなたが洋風の部屋に住んでいらっしゃるとして、なにかを隠す必要に迫られるとするんですね。そういう場合、あなたはどういう場所をえらびますかね」 「ものはなんです。大きさは……?」 「大きさは、そう、トランプのカードくらい……あるいはもう少し小さなものを、まあ、二、三十枚隠すとするんですね」 「トランプのカードよりもう少し小さいものを二、三十枚」  王文詳氏はしばらく考えるふうだったが、 「金田一先生、こういう場所はどうでしょう」 「はあ」 「これはわたしの恥ずべき同国人がやったことなんですが、そいつ麻薬、つまりヘロインですね、ヘロインの密輸をやっていた。そのヘロインのかくし場所というのが洋室のドアのうえだったそうです」 「ドアのうえとおっしゃると?」 「いや、そのドアというのが厚さ三センチくらいある部厚いやつだったんですね。やっこさんそのドアの上部に幅一センチ半くらいの溝をつくって、そこへビニールのサックにいれたヘロインをかくしておいた。そして、そのうえにぴったりふたがしてあったので、なんべん家宅捜索をうけても発見されなかったというんですね。けっきょくそいつ、ほかのことから足がついてあげられましたが」  金田一耕助はしばらく無言でいたのちに、 「王さん、それはよいことを教えてくださいました。ついでのことにもうひとつお願い」 「はあ、なんなりと」 「いまこういうことをわたしに教えたということを、当分ぜったいだれにもおっしゃらないで」 「承知いたしました」 「あなたの恩人李さんのためにもですよ」 「それならなおさらのことです。はあ、わたしはぜったいにだれにも洩らしません」  王文詳氏を送りだしたあと、金田一耕助はしばらく考えこんでいたが、時計を見るとまだ八時半。こころみに警視庁へ電話をかけるとうまいぐあいに等々力警部はまだいあわせた。 「金田一先生、なにか……?」 「いや、いまふと思いついたんですが、都築克彦が殺害された部屋ですがね。いまあの部屋はどうなってます? じつはぼくこんやにもあの部屋を調べてみたいんですが、ぜったいにひとにしられたくないんです。ことに藤野磯吉にはね」 「ああ、そう、それじゃ高輪署へ連絡してみましょう。結果はすぐ電話しますから」  十分ほどして等々力警部から電話があった。 「金田一先生、いいあんばいにあの部屋はいま空いてるそうですよ。借り手がついてもあの事件を耳にすると、みんな気味悪がってすぐ出てしまうんだそうです」 「ああ、なるほど」 「それから藤野ですが、こんやとうとう出かけたそうですよ」 「出かけたってどこへ」 「五反田の問題のバーでさあ」 「あっはっは、ああ、そうですか」 「あのことが露見した以上、あんまり出むかないとかえって怪しまれるとでも思ったんじゃないでしょうかね。いま高輪署のわかい刑事が見はってるんだそうです」 「ああ、そう、それじゃこれからすぐに出むきますから、警部さんも出むいていてください。そして、ぜったいだれにもしられないように問題の部屋を調査できるようにしておいてください」 「承知しました。なんだか楽しみですよ」  それから約一時間ののち金田一耕助と等々力警部、高輪署の加納警部補の三人は白金会館の六階八号室のなかに立っていた。  なるほどぜいたくな構えである。浴室や台所をのぞいても三部屋あり、全部洋風になっている。応接室と居間とベッドルーム。どのドアにも装飾ガラスがはまっているが、居間とベッドルームをへだてるドアだけは、厚い一枚板でできている。板の厚さはたっぷり三センチはあるだろう。 「金田一先生、どこをお探しですか」  加納警部補の質問に金田一耕助はちょっとはにかんだ。  都築克彦が王文詳氏の不埒な同国人とおなじ考えをもっていただろうという根拠はどこにもない。しかし、都築殺しの犯人も見おとし、警察の手でも発見できなかったものを、後日藤野磯吉が見つけたとすると、この部屋のどこかに巧妙なかくし場所があったに違いない。 「警部さん、そのドアのうえをさぐってみてくださいませんか」 「ドアのうえを……?」 「はあ、そのドアのうえに細い溝が掘ってあって、その溝を板でふたがしてあるんじゃないかと思うんですが」  等々力警部は無言のままドアの上部をさぐりはじめた。手ごたえがあったらしいことはすぐその顔色から察しられた。警部はあたりを見まわしたが踏み台になるようなものは見あたらなかった。 「加納君、ちょっと背中を貸してくれたまえ」  等々力警部は一メートル七〇を越える大男だが、加納警部補もがっちりした体をしている。警部はその背中におんぶされると、 「金田一先生。だれかがこのドアのうえをいじった形跡がある。ほこりが乱れています!」 「なにかかくし場所のようなものは?」 「ドアの上部の一部をくりぬいて板片で詰めものがしてあります」 「警部さん、これを……ほこりを乱さないように」  金田一耕助が手渡したのは折りたたみ式のナイフである。 「あっ、なにかある、封筒のようなもんだ」 「警部さん、これを……指紋をのこさないように気をつけて」  金田一耕助から渡されたのは小さなピンセット。そのピンセットのさきにピースの箱くらいの大きさの封筒をつまんで、加納警部補の肩からとびおりたとき、等々力警部の額にはびっしょり汗がうかんでいた。 「金田一先生、それじゃこの封筒のなかにあのフィルムが……」 「ちょっと拝見」  金田一耕助はいつのまにか薄い手袋をはめている。手にとってみると封筒には封がしてあって、封じ目には唐草模様みたいなものがいちめんに書いてある。金田一耕助は手ざわりでなかみをさぐってみて、 「厚紙が二枚……ゴムバンドで三とこしめてあります。おそらくその厚紙のあいだに……」 「あのフィルムがはさんであるというんですか」 「じゃ、だれもいままでこれを発見したものはなかったと……?」  警部と警部補がほとんど同時に質問を放った。ふたりとも声は低いが息がはずんでいる。 「いや、そうは思いませんね。この封筒をごらんなさい。こりゃまだ新しいですよ」 「と、いうと……?」 「都築の死後、こいつを発見したやつは、じぶんの手もとにおいとくより、ここにこうして保管しておくほうが安全だと考えたんじゃないでしょうかねえ。そして、ときどきこのなかみを利用するが、利用したあとはこうして厳重に封をしてもとのところへかくしておく、この封筒の封が切られたり、だれかがこのかくし場所を探りあてた形跡があると、その男はこの一件から手をひくつもりではないでしょうか。そうなるとわれわれは永遠にそいつをつかまえることはできない」 「やっぱり藤野磯吉だな。あいつだとここへ自由に出入りができる」 「しかし、金田一先生、こりゃどうしたもんでしょう。この封筒のなかに問題のフィルムがあるとしても、これでもってただちに藤野をつかまえるわけにゃいかない。あいつがこれを利用してたという証拠はどこにもないんだから」 「だから、これはこのままにしておいて、もう少しようすをうかがっていられたら?」 「しかし、みすみすこれを手に入れながら……」  加納警部補はいかにもくやしそうだった。 「警部さん、これを本庁へもっていって、だれにもわからないように開封することができますか」 「それはできると思う」 「藤野に気づかれぬように?」 「藤野のほうはわたしがなんとかしましょう」 「ああ、そのハンカチを出してください」  金田一耕助は警部のひろげたハンカチのうえに封筒をおくと、 「それではあなたがたにおまかせしましょう。警部さん、フィルムの焼きつけができたらいちどはわたしにも見せてくださいよ」  金田一耕助はあとをふたりにまかせておいて、飄々としてそのまがまがしい部屋を出ていった。      十九  昭和三十五年六月二十六日。  金田一耕助が等々力警部に寝こみをおそわれたのは、その朝の十時ごろのことだった。 「警部さんははやいんですねえ」  金田一耕助が不平たらたら顔を洗って応接室へ出ていくと、等々力警部は|檻《おり》のなかのライオンみたいに、部屋のなかをいきつもどりつしていた。 「はやいんですねえって、これがぐずぐずしてられますか。これがご所望の一件ですよ」  どさりとテーブルのうえに投げ出された部厚い西洋封筒を見て、 「ああ、例の写真……? 三十六枚あるんですか」 「いいえ、三十六枚はありませんでした。全部で十二枚です」 「ああ、そう、じゃみんながみんな写真をとられたわけじゃなかったんですね」  写真は全部はがき大に引きのばしてあるので、いっそうそのいまわしさが拡大されている。まるで珍妙なポーズをきそっているようなもんだが、いずれも女の顔だけははっきり認識できるように撮られている。男はやはり園部隆治らしかった。女はみんな眠っているようである。なかにいつか見た朱実の写真もまじっていた。  金田一耕助が急いでそれを最後にまわすと、その下から出てきたのは十五、六の少女の写真だ。 「金田一先生。それが当時の沖野ちどり、現在の水原ユカリですよ」 「ああ、そう」  金田一耕助にはそれ以上そのいまわしい写真を見る必要はなかった。ひとまとめにして封筒のなかへおさめると、 「で……?」 「いや、万事あなたのおっしゃったとおりに取りはからっておきましたよ。現物はもとの場所へかえしておきました」 「藤野には気づかれなかったでしょうねえ」 「だいじょうぶ。加納君はあいつをつかまえたがってうずうずしてるんですがね」 「そりゃ、恐喝者としてならいいでしょうが、こんどの二重殺人事件の犯人としてなら見当ちがいじゃないでしょうかねえ」 「あなたはそう思いますか」 「だって、藤野は園部を殺すと損ですよ」 「損だというと?」 「だって恐喝者というやつはいつもデスペレートな犠牲者に逆襲される危険にさらされている。|殷《いん》|鑑《かん》遠からず都築の例があるじゃありませんか。だから藤野はいつも園部を表面に立てて犠牲者をゆすっていた。ひょっとすると犠牲者たちは園部の背後に、藤野という男がひかえていることをしらなかったかもしれない」 「そういえば朱実も気がついていなかったようですな」 「そうでしょう。だから、園部を殺しちまっちゃ、こんどはみずから出馬しなければならなくなる。それが非常に危険な仕事だくらいあの男もしってたでしょうからね。しかし、藤野は犯人ではないが、犯人がだれであるかをしってるかもしれませんね」 「井筒屋から自動車で成城まで犯人を追っていったのは、やはり藤野だというお考えですね」 「警部さんはそれをどういうふうに?」 「そうすると、朱実はやっぱり井筒屋のあの廃屋で殺されたという見こみですか」 「それはそうでしょう。朱実はあの晩オースチンで出かけ、あのへんで消えてるんですからね」 「そうすると、犯人はあの廃屋で朱実を殺し、その死体をのっけて成城の李泰順の家まで運ぼうとしたが、途中で自動車がエンコした。そこでトランクを開いて朱実の胸に刺してあった短剣を抜きとり、もういちどトランクをしめ、ふたに鍵をかけたところでネロにほえられた拍子に鍵をうしなってしまった。しかし、犯人はあくまで李の家を殺人の現場と見せかけるために、李の家へおもむいてなかへ忍びこみ、トランプの配列をやり、朱実の死体からとってきた血を現場へなすくりつけておいたというわけですか」 「だいたい、ぼくもそういう考えなんですが、ここにひとつその説には矛盾があるんです」 「矛盾というと?」 「李家の鍵をどうします。鍵はハンドバッグのなかに入っていましたね。そのハンドバッグは朱実の死体とともにトランクのなかへ封じこめられてしまった。しかも、そのトランクの鍵を犯人はうしなってしまったんです。あの鍵をつかったとしても犯人はそれをハンドバッグのなか、すなわちトランクのなかへ返しておくことはできなかったはずですからね」  金田一耕助がおしゃべりをしているあいだ、等々力警部はあっけにとられたようにまじまじあいてを見ていたが、やがてていねいに頭をさげると、 「金田一先生、こりゃ申しわけございませんでした」 「えっ?」 「ハンドバッグから出てきた鍵の環にゃ、鍵が五つしかなかったでしょう。あの鍵のなかにゃ玄関の鍵がなかったんです。つまり、玄関の鍵だけが紛失してたんです」  金田一耕助はしばらく|唖《あ》|然《ぜん》として等々力警部の顔を見ていたが、みるみる顔を紅潮させて、思わずのどのおくでくっくっ笑った。 「いや、どうも、金田一先生、すみませんでした。それをお耳に入れてなくって……」 「いや、いや、いや!」  金田一耕助は強く首を左右にふって、 「わたしはなにもあなたを責めてるんじゃない。だからひとのことはいえないってこってさあ。じぶんではなにもかも見きわめてるつもりでいながらね。そうでしたか。じゃ、犯人はあらかじめ玄関の鍵だけ鍵の環から抜きとっておいたんですね。それなら話は簡単です」 「いや、どうも」 「いや、いや、いいです。ぼくが早わかりしてたんですから。それより、それから……?」 「ああ、つまり、それで朱実のほうはかたづきましたが、それから犯人はまた井筒屋のあの廃屋へ引きかえしたんでしょうか」 「いや、こんどは井筒屋じゃないと思う。朱実はあの晩清浄だったのに、園部は女と寝た形跡があるというんですからね」 「あっ、それじゃ、水……」 「名前はまだいわないほうがいいんじゃないですか。われわれのはまだ臆測にすぎないんですからね。ただし、これが男Mと女Wの共謀じゃないかということは想像できますね」 「なるほど、すると男Mが朱実のかたをつけているあいだに、女Wが園部をひっぱりこんでことを行ない、あいてを油断させておいて、薬入りのウイスキーであらかじめ眠らせておいた。そこへ朱実をかたづけたMがやってきて刺殺したとすると、時間的に符合するわけですね」 「いや、わたしはこう思うんですよ。Mは李泰順氏が佐伯氏の自動車を盗むのを見ていた。そこで今夜なにかあるにちがいないと、Wのところへ赴いてよく打ちあわせ、園部を呼びよせるようにしておいた。そして、Wの自動車を借りて、成城から李氏の自動車を尾行した。そして、李氏があそこで自動車を乗りすてるのを見とどけておいて、井筒屋の廃屋へ赴いた。それがちょうど八時から八時半までのあいだでしょう。朱実はそこで園部を待っていたか、あるいはあの証拠のフィルムを探すかしていたんでしょう。それをハートのクイーンを突き刺したあの短剣でうむをもいわさず刺殺した」 「その短剣は李氏の机のひきだしから盗みだしたものなんですね」 「そういうこってしょうね」 「ハートのクイーンを突き刺しておいたのも、李氏に罪を転嫁するためってわけですね」 「それもそうでしょう。すべてを李氏の嫉妬による犯罪と見せかけたかったんでしょうねえ」 「ふむ、ふむ、それから?」 「それから、Wから借りてきた自動車はどっかへかくしておいて、朱実の乗ってきた自動車で死体を李家へ運ぼうとした。ところがそこで思いがけない誤算が起こった」 「思いがけない誤算とは……?」 「自動車がエンコしてしまったことです。おかげで朱実の死体を李家へ運びこむことができなくなった。もし、予定どおり朱実の死体を李家へ運びこむことができたら、園部の死体も李家へ運びこむつもりだったんじゃないでしょうか。そうするとふたりの死体が発見されるのは、なか一日おいた二十三日の朝になります。古川ナツ子はいつも二十三日の朝かえってくるといってましたからね。その間約三十六時間、ふたつの死体の死亡時刻の一時間やそこいらの誤差は見おとされるだろうし、また、李泰順氏がふたりを自宅で殺しておいて、アリバイをつくるために神戸へたったんだと、そう思わせようとしたんじゃないでしょうか」 「なるほど、なるほど、そう考えると簡単ですな。ところが思いがけない自動車の故障で、犯人の計画がすっかり狂ってしまった……?」 「そういうこってすね。そこで思いだしたのが李氏の乗りすててった自動車です。犯人はおそらく李氏が立ちさったあとでその自動車を改め、李氏がすぐ手のとどくところに鍵をおいてったのをしってたのでしょう。こんどはそれを利用しようというわけで、李氏の家でトランプの配列やなんかやってとびだしたのが九時半ごろ。タクシーをうまく利用すれば弦巻町までは十五、六分ですから、秋山卓也なる学生が十時過ぎに山口家のへい外でシャーシャー失敬したときにゃ、自動車はそこになかったというわけです」 「なるほど、それから経堂……いや、Wのうちへ車をとばしたんだな。そこでWによって眠らされてる園部を殺して、こんどはその自動車のトランクに詰め、また山口家のへい外へおいてきたというわけですね」 「犯人としてはそれよりほかに園部の死体のしまつのつけようがなかったんでしょうね。さいしょの予定が狂ったもんですから。それに弦巻町からW家まで自動車でいけば五、六分か六、七分ですむことをしってたし、その間、電話でWと連絡しあってたかもしれない」 「なるほど、それから……? 死体入りの自動車を山口家のへい外へ乗りすてて、それから?」 「それから犯人は井筒屋の近所にかくしておいたWの自動車でまたあらためてW家へいった。そして、Wをのっけて十一時ごろそこを出かけたというわけじゃないですか」 「あっ、それで……?」 「それでとおっしゃるのは?」 「いや、Wはあの晩二度家を出たと志村刑事にいっている。十時過ぎいったん自動車で家を出たが、途中で台本の落丁を発見したのでまた引きかえして、十一時ごろまた改めて出かけたと……」 「細木家のひとたちに自動車が二度スタートした音をきかれてるかもしれない。それを|糊《こ》|塗《と》するためにああいう口実を編み出したんでしょうねえ」  金田一耕助は溜め息をついて、 「犯人はそんなあぶなっかしいことはやりたかなかったにちがいない。オースチンが故障さえ起こさなければ、園部の死体を李家へ運ぶだけでことはすんだはずです。それが成功していれば八時五十分ごろ李氏が渋谷駅から渡部へ電話をかけていても、李氏のアリバイはなりたたなかったかもしれない。だから完全犯罪というものはむつかしいですね」 「ところで、金田一先生、動機は?」 「朱実はむしろ抱きあわせじゃなかったでしょうか。李氏の嫉妬による犯行と思わせるための。ほんとの目的は園部殺しじゃないでしょうか」 「つまりWを救うための?」 「それだったらまだ救いがありますね。だけど、ひょっとしたら……」 「ひょっとしたら……?」 「M君はひょっとしたら園部にとってかわろうとしたんじゃないでしょうかねえ。朱実をスパイしているうちに園部のことをしった。その園部とWのこともかぎつけた。そこでWに接近し、彼女を抱きこみ、彼女を欺き、Wを救うという口実で園部殺しに一役買わせ、さてあわよくばあのフィルムを手に入れて……この写真の原板はひとによってはひと財産ですからねえ」  金田一耕助は思わず身ぶるいした。 「金田一先生、あのトランプのカードのことは、朱実が園部に話し、園部がそれをうっかりユカリに話したと見ていいんでしょうねえ」 「おそらくそこからこんどの犯罪を思いついたんじゃないでしょうか」  しばらく無言ののちに、 「それにしても、金田一先生」 「はあ」 「ユカリ……いや、WがそうやすやすとMの誘いにのって殺人の片棒をかついだのは、あのフィルムを取りかえしたかっただけでしょうか。去年の都築殺しとはなはだ手口……つまり男と寝てあいてに油断させ、酔わせて眠らせておいて殺すという手口が、去年の都築殺しとはなはだよく似てるんですがねえ。それに……」 「それに……?」 「ここに十二人の犠牲者の写真がありますが、朱実とユカリをのぞいた十人は、全部去年捜査線上にうかびあがり、しかも、都築殺しにははっきりとしたアリバイがあったんですよ」  金田一耕助はしばらく無言で控えていたが、 「警部さん、ぼくはここで手を引きます。李泰順氏が犯人でないことがわかれば、ぼくはもうこの事件に興味はありません。これはあまりにもいまわしい事件ですからねえ」  金田一耕助にそろそろまた例のメランコリーがおそってきたらしいのに気がつくと、等々力警部はいたましそうな目をして、げっそりこけた横顔を見つめていたが、 「ああ、そう、それでは……」  と、素直に立ちあがったが、ドアのところまでいってからふと思いだしたように、 「それはそうと成城まで坂巻……いや、Mをつけてった藤野は、あのトランクのなかに死体のあることをしってたでしょうかねえ」 「いや、それはおそらくまだしらなかったんじゃないですか。だから田村巡査が立ちさったのち、なぜ急にあの男が自動車を乗りすてたのかと不思議に思って、もういちど引きかえしてきて、自動車を運転してみようとした。そして故障としって立ちさったが、そのときすべての明りを消し、鍵をもっていったんじゃないですか。まさかトランクのなかに死体があるとは気がつかなかったが、なにかしら容易ならぬものをかぎつけたことはたしかでしょうねえ」 「ああ、なるほど、わかりました」 「では、成功を祈ります」  金田一耕助はぺこりと陰気に頭をさげた。      二十  この物語はここで終わってもよいのだが、|穿《せん》|鑿《さく》好きな読者のためにいささか蛇足をつけておこう。そのことはこの事件の捜査担当者が、いかに根気強かったかということを、同時に物語ることにもなるのだから。  捜査当局としてはあのいまわしい写真を証拠に、都築克彦殺害事件の当時における水原ユカリのアリバイを追究してもよかったのだが、なにしろ九か月も以前の事件である。アリバイ追究に正確を期しうるかどうかということに自信がなかった。  しかも、こんどの事件ではユカリはともかくアリバイをもっている。だれも園部がユカリの家へ入るのを見たものはなかったし、またユカリの家に園部がいるところを目撃したものはなかった。いや、たったひとりの目撃者、細木家の女中のチカはそれを坂巻啓蔵と見誤り、それがふたりの立場をいっそう有利にしていた。  じっさいあの晩坂巻はたびたび危い橋を渡っているのだが、不思議にラッキーにめぐまれていたとみえて、どこにもしっぽを出していなかった。あの晩、ずうっとユカリのところにいたと主張すれば、それを突きくずすような物的証拠はどこにもなかった。  しかし、捜査当局が直接このふたりに手をつけようとはせず、遠くのほうから監視することによって、じれったい満足をしていたというのには、もうひとつ重大な理由があった。  ふたりを捕えて泥を吐かせることに成功するとしても、そうなったらもうひとりの重要人物、藤野磯吉はどうなるか。ふたりを挙げることによって恐喝事件が明るみに出て、藤野磯吉がそれにおそれをなし、こんご恐喝から手を引いてしまったらどうなるか。かれを捕える証拠はどこにもないのだ。用心ぶかいかれは、園部隆治との関係を証明しうるような証拠や証人をどこにも残していなかった。  だから、捜査当局としてはひそかにかれの出方を監視することによって、できたら一挙にMとWのカップルも捕えたいというのが狙いだった。  それはずいぶんしんぼうづよい根気のいる仕事だったが、さいわい藤野磯吉はあのいまわしいフィルムを発見されたということに、まだ気がついていないふうだった。その証拠にかれは七月の中旬ごろ、すなわちあの二重殺人事件が起こってから約一か月ののち、十二人の犠牲者のうち、ひとりの女をまんまと恐喝したらしい形跡があるのだ。そろそろほとぼりが冷めたと見たのか、恐喝者はいよいよ表面に出て動きはじめたのだ。  七月二十二日、すなわち事件が起こってからちょうど一か月のちのこと、金田一耕助は等々力警部から電話で報告をうけた。 「やっこさん、いよいよ活発に動きはじめましたよ。矢つぎばやに犠牲者を六人恐喝しやあがった。しかも、こんどは少し妙なところがあるんです」 「妙なところとは?」 「犠牲者に例のフィルムを返還してるんです。そのかわりうんと吹っかけてますがね。ある婦人のごときはあのフィルムと引きかえに、百万円ふんだくられましたよ」 「警部さん」  金田一耕助はぎょっとして、 「それじゃ、やっこさん、これをさいごに手をひくつもりじゃ……」 「どうもそうらしいんです。げんに周囲のもんにもちかく郷里の熊本へ隠棲するかもしれんといってるそうですから」 「ひょっとするとW女史はさいごの楽しみにとってあるんじゃないでしょうか」 「わたしもそう思う。そのときのWとMの出方がみものですよ。あっはっは」  警部はもうこっちのもんだといわんばかりに電話のむこうで|哄笑《こうしょう》した。  ついにさいごのときがきた。捜査当局としては待ちに待った一瞬だったが、しかし、あとできくと活劇の幕切れとしてはまことにあっけないものだったらしい。  藤野磯吉と水原ユカリの取りひきは八月十二日の晩おこなわれた。場所は上野公園のなかで取りひき額は三百万円。  藤野の待っているところへユカリがやってきた。取りひきは順調におこなわれそうにみえたが、とつぜん暗がりから躍りでた男が藤野の土手っ腹をえぐった。藤野も抜けめのない男だから、よほど用心していたにちがいないが、MとWのコンビには勝てなかったらしい。  もしこのとき三人をそれぞれ尾行していた三署の刑事たちが取りおさえなければ、藤野はその場で一巻の終わりとなっていただろう。たった一枚残ったあのいまわしいフィルムもふたたび捜査当局の手にもどった。  事露見と覚ったユカリはその場で自殺をはかったそうだが、これは志村刑事に妨げられた。  その夜さっそく等々力警部は緑ケ丘荘へ電話をかけたが、金田一耕助はその日の朝旅行にたったということであった。 本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月) 金田一耕助ファイル16 |悪《あく》|魔《ま》の|百唇譜《ひゃくしんふ》 |横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》 平成14年1月11日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Seishi YOKOMIZO 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『悪魔の百唇譜』昭和51年 2月25日初版発行             平成11年10月20日改版4版発行 ========= 次の校正者にお任せする部分 ========== 1178行 ※[#ここに地図画像]